ゴッホ「黄色い家」とは?アルルで画家たちと暮らす夢を見た家と、広場の砂の山
アムステルダムのゴッホ美術館にある、硫黄色の太陽とコバルトの空の下の家

「黄色い家」とは
濃い青の空の下、広場に面した角の家が、明るい黄色に塗られています。緑の鎧戸のある窓のうしろに、ゴッホが住んでいました。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890年)が、南フランスのアルルで1888年9月に描いた「黄色い家」です。
所蔵はアムステルダムのゴッホ美術館です。館の作品ページによると、カンヴァスに油彩で、大きさは縦72cm、横91.5cmです。ゴッホ自身はこの絵を「通り」と呼んでいて、館の題名も「黄色い家(通り)」となっています。
ゴッホ美術館の研究員の記事は、描かれたのを1888年9月27日から29日としています。わずか3日ほどで仕上げた絵です。

制作の背景、画家たちと暮らす家
ゴッホ美術館によると、ゴッホは1888年5月、アルルのラマルティーヌ広場に面した家の4部屋を借りました。館のよくある質問のページでは、ラマルティーヌ広場2番地の1階の2部屋を台所とアトリエに、2階の小さな2部屋を寝室と客用の寝室にしたと説明されています。
館は、ゴッホがこの黄色い家で、ようやく絵を描くだけでなく、友人を泊めることのできる場所を手に入れたと紹介しています。ゴッホは、この角の家を、同じ考えを持つ画家たちが一緒に暮らし、制作する「画家の家」にしたいと考えていました。
翌10月、ゴッホは2階の自分の寝室を描きます。ゴッホ美術館の「寝室」(1888年10月)です。館によると、ゴッホは簡素な家具をそろえ、自分の絵を壁に掛けて、この部屋を自分で整えました。同じ部屋を描いた絵は、オルセー美術館の「アルルの寝室」などにも残っています。

技法と色彩、硫黄色の太陽とコバルトの空
1888年9月29日ごろ、ゴッホは弟テオへの手紙に、この絵の小さなスケッチを添えて、こう書いています。「家とそのまわりを、硫黄色の太陽の下、純粋なコバルトの空の下に描いた。とてもむずかしい題材だ。でも、だからこそものにしたい。日の光の中の黄色い家と、くらべもののない青のすがすがしさが、すさまじいからだ」(Car c'est terrible ces maison jaunes dans le soleil et puis l'incomparable fraicheur du bleu.)。
空はほとんど濃い青一色で、筆の跡が縦や斜めに走っています。その下の家や広場は、黄色、クリーム色、黄土色で描かれています。黄色と青を大きく並べた画面です。
ゴッホ美術館は、この絵がゴッホの身のまわりをそのまま記録していると紹介しています。館によると、ゴッホは左の店でよく食事をしていました。友人の郵便配達人ジョゼフ・ルーランの家は、奥の2つめの鉄道橋の先にありました。




広場の砂の山は何だったのか
画面の左下と、奥の鉄道橋へ向かう通りには、砂の山が描かれています。ゴッホは手紙でこの砂にふれていません。
ゴッホ美術館の研究員テイオ・メーデンドルプの記事によると、2000年に館で開かれた展覧会の図録は、この砂をガス管の工事のためのものと考えました。ゴッホは、ゴーギャンを迎える前に、夜も絵が描けるよう黄色い家にガスを引いています。この説は広く受け入れられました。
ところが手紙を読み直すと、ゴッホがガスの工事を頼んだのは、ゴーギャンが来る日がはっきりしてからでした。ゴーギャンがアルル行きを知らせてきたのは10月10日ごろで、絵はそれより前の9月末に仕上がっています。アルルでは、1849年から1881年にかけてガス管がすでに引かれていました。絵には、管を埋めるための溝も見当たりません。
館は、1902〜03年ごろの絵はがきから、別の答えを見つけました。当時の通りでは、馬のふんや尿を吸わせるため、砂をまいては掃除をしていました。ゴッホの絵の砂の山は、町の北に向かう大通りの掃除のあとだったと館は考えています。1888年8月、アルル市は通りの掃除を新しい会社にまかせると決めていました。
ゴーギャンを迎えた家
「画家の家」の夢の最初の仲間になったのが、画家のポール・ゴーギャンです。ゴッホ美術館の研究員の記事によると、ゴッホはゴーギャンが来る前に家を整えたいと考え、夜も一緒に制作できるようガスを引きました。費用は25フランで、ゴッホはテオにお金を頼んでいます。10月17日と21日の手紙で、アトリエと台所にガスがついたことを知らせています。
ゴッホ美術館などが編集した書簡集の注によると、ゴーギャンがアルルに着いたのは1888年10月23日の朝でした。ゴッホは10月25日ごろの手紙で、ゴーギャンが元気に着いたとテオに伝え、「彼とならたくさんのことができると信じている」と書いています。
しかし2人の共同生活は長く続きませんでした。同じ年の12月、ゴッホは自分の耳を切る事件を起こし、ゴーギャンはアルルを去ります。のちにゴッホは、耳に包帯を巻いた姿を描きました。それが「包帯をした自画像」です。
同じ手紙に書かれた「ローヌ川の星月夜」と「夜のカフェ」
この絵のスケッチを送った1888年9月29日ごろの手紙で、ゴッホはまず、夜のローヌ川を描いた絵のことを書いています。ガス灯の下で描き、空は緑がかった青、川は濃い青で、北斗七星が緑と桃色にまたたく、と説明しています。オルセー美術館にある「ローヌ川の星月夜」です。
同じ手紙で、ゴッホは「黄色い家」の絵について、「私が描いた夜のカフェはこの絵には入っていない。レストランの左にある」と続けています。「夜のカフェ」は、ラマルティーヌ広場のそばにあったカフェの店内を、同じ9月に描いた絵です。
ゴッホ美術館の研究員の記事によると、ゴッホは黄色い家に移る前、広場のそばのジョゼフ・ジヌーの夜のカフェに部屋を借りていました。黄色い家の絵には、ゴッホがアルルで毎日行き来した場所が集まっています。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズを扱っています。

1944年に失われた家
黄色い家は、今のアルルにはありません。ゴッホ美術館によると、1944年6月25日、連合軍がローヌ川の橋を壊すために行った爆撃で、飛行機から落とされた爆弾が家に当たり、あたりは平らになりました。
ゴッホが黄色い家を借りていたのは、1年足らずのあいだでした。それでもこの家で、ゴッホは「寝室」や、ゴーギャンの到着、耳の事件など、画家の人生の大きな出来事を迎えました。
館の作品ページによると、絵は今、ゴッホ美術館で展示中です。家そのものはなくなりましたが、ゴッホが「すさまじい」と書いた黄色と青は、絵の中に残っています。
「黄色い家」を見るには、ゴッホ美術館とグッズ情報
「黄色い家(通り)」は、アムステルダムのミュージアム広場にあるゴッホ美術館で見られます。同じ館には「寝室」や「ひまわり」の1点もあります。
館の案内によると、入館料は大人25ユーロで、2027年1月1日からは26ユーロになります。18歳未満は無料です。入館は日時を指定した予約制で、チケットは館のサイトか、館が認めた販売先で買うよう案内されています。開館はおおむね毎日9時からで、閉館は時期によって17時か18時、金曜日は21時までの日があります。出かける前に館のサイトで確かめてください。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズを扱っています。アルル時代のゴッホ「アルルの寝室」のポスターや、「ローヌ川の星月夜」のスノードーム、扇子など、日常を彩るアートグッズをお届けします。
よくある質問
ゴッホの「黄色い家」はどこにある?
アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵しています。館の題名は「黄色い家(通り)」です。ゴッホ自身はこの絵を「通り」と呼んでいました。
「黄色い家」はいつ描かれた?
1888年9月、南フランスのアルルで描かれました。ゴッホ美術館の研究員の記事は、9月27日から29日としています。
「黄色い家」の大きさは?
ゴッホ美術館の作品ページでは、縦72cm、横91.5cmです。カンヴァスに油彩で描かれています。館の研究員の記事には縦71.3cm、横91cmとあり、資料によって少し違う数字が載っています。
黄色い家は今もアルルにある?
いいえ。ゴッホ美術館によると、1944年6月25日、ローヌ川の橋をねらった連合軍の爆撃で、爆弾が家に当たってなくなりました。
絵の手前の砂の山は何?
ゴッホ美術館は、通りの掃除のための砂だと考えています。当時は、馬のふんや尿を吸わせるために通りに砂をまき、掃除をしていました。以前はガス工事の砂とする説が広く受け入れられていました。
ゴッホの絵のグッズはどこで買える?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズを販売しています。「アルルの寝室」のポスターや「ローヌ川の星月夜」のスノードームなど、日常を彩るアートグッズをお届けしています。