ゴッホ「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」とは?6枚の肖像と友情
金の飾りのついた青い制服と、ソクラテスのような顔。アルルでゴッホを支えた友人の肖像

いま、別のモデルで描いています。金の飾りのついた青い制服の郵便配達夫で、ひげをたくわえた大きな顔は、とてもソクラテス的です。
「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」とは
金色のボタンが並ぶ濃い青の制服、「POSTES」(郵便)の金文字が入った帽子、胸まで届く豊かなひげ。後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホが1888年の夏、南仏アルルで描いたのが「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」です。日本では「郵便配達夫ルーラン」「郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像」とも呼ばれ、名前は「ジョセフ・ルーラン」とも書かれます。
モデルのジョゼフ・ルーラン(1841〜1903年)は、アルル駅で働いていた郵便局員です。正式な役職は、列車で運ばれる郵便物の積み下ろしを受け持つ係でした。手紙を家々に配る仕事ではありませんが、ゴッホは手紙で彼を「facteur」(郵便配達夫)と呼んでいます。
ゴッホはルーランの肖像を、およそ半年のあいだに油彩で6点、素描で3点描きました。いちばん最初の1点がボストン美術館にある半身像(81.3×65.4cm)で、手まで描かれているのはこの1点だけです。
描き始めた1888年7月31日、ゴッホは弟テオへの手紙にこう書いています。
「いま、別のモデルで描いています。金の飾りのついた青い制服の郵便配達夫で、ひげをたくわえた大きな顔は、とてもソクラテス的です。」

制作の背景、アルル駅で出会った友人
1888年2月、ゴッホはパリを離れて南仏アルルへ移りました。アルルで過ごした1年3か月ほどのあいだに、「ひまわり」「夜のカフェテラス」「アルルの寝室」など、今よく知られる作品が次々に生まれています。
ルーランと知り合ったのは、1888年の夏です。ゴッホ美術館によれば、テオに送る絵を駅から出していたことがきっかけだったと考えられ、2人は駅前のカフェ・ド・ラ・ガールでよく会って親しくなりました。ルーランは美術にはくわしくありませんでしたが、政治の話が好きでした。アルルに知り合いの少なかったゴッホにとって、大切な話し相手になります。
最初にポーズをとったのは、ルーランの娘マルセルが生まれた1888年7月31日でした。その日、ゴッホは妹ヴィルへの手紙で、ソクラテスのような頭で、鼻はほとんどなく、額は高く、頭頂ははげ、小さな灰色の目、赤い頬、白髪まじりの大きなひげ、大きな耳、と細かく書いています。熱心な共和主義者で社会主義者、議論がうまく物知りな男だとも紹介しました。テオへの手紙では、こう続けています。
「タンギー親父のような熱烈な共和主義者です。たいていの人より、ずっと面白い男です。」
タンギー親父とは、パリでゴッホが通った画材商で、ゴッホが「タンギー爺さん」の肖像に描いた人物です。ルーランはモデル代を受け取らず、そのかわりにゴッホと一緒に食べたり飲んだりしたので、かえって高くついたとゴッホは書いています。

6枚の肖像の描き方と色
最初の2点は、1888年7月末から8月初めに描かれました。ゴッホは友人の画家ベルナールへの手紙で、ルーランがポーズのときに体をこわばらせすぎたので2度描いたと書いています。先に描いたのが、手まで入れた半身像(ボストン美術館)、次が頭部の肖像(デトロイト美術館)です。
ボストンの1点目では、淡い青の背景に、濃い青の制服のルーランが座っています。ゴッホ美術館は、ゴッホが写真のような似姿ではなく、明るく大胆な色で人柄を描こうとしたと解説しています。帽子の「POSTES」の文字で、誰が見てもこの人が郵便局員だとわかります。肖像画は裕福な人だけのものではない、という主張でもありました。
2点目からは、肩から上だけを描き、顔に目が向くようにしています。少し曲がった鼻や、唇にかかる不ぞろいな口ひげといった細部が、本当にそこにいる人のように感じさせます。
1888年の秋には、緑の背景(バーンズ財団)と黄色の背景(ヴィンタートゥール美術館)の2点を描きました。緑の背景の1点では、花と署名を、背景が乾いてからあとで描き足しています。黄色の背景の1点は形がより単純で、ガス灯の薄明かりのもとで夜に描いたのではないかと考えられています。




「ソクラテスのような男」、ゴッホが見たルーラン
ゴッホはルーランを、何度もソクラテスにたとえています。テオへの手紙、妹への手紙、画家ベルナールへの手紙のどれにも、その言葉が出てきます。ゴッホ書簡集の注釈は、たっぷりしたひげと共和主義の信念が、古代ギリシャの哲学者を思わせたのだろうと説明しています。
ゴッホにとってルーランは、絵のモデル以上の人でした。パリでは描きたくてもモデルが足りず、思うように肖像画を描けなかったゴッホは、アルルでルーランとその家族に出会い、肖像画家としての願いをかなえていきます。
オランダ時代に「ジャガイモを食べる人々」(1885年)で農民の暮らしを描いたゴッホは、アルルでは郵便局員を、堂々とした肖像の主役にしました。制服姿のルーランを、威厳のある姿勢で座らせたボストンの1点目には、その思いがよく表れています。

耳の事件のあと、ゴッホを支えたルーラン
1888年10月23日、ポール・ゴーギャンがアルルに来て、ゴッホとの共同生活が始まります。しかし2か月後の12月23日、激しい言い争いの末に、ゴッホは自分の左耳を切り、アルルの病院に運ばれました。ゴーギャンは列車でパリへ戻ります。
ゴッホのそばにいたのは、ルーランでした。仕事の合間にできるだけ見舞い、テオと連絡を取り合い、黄色い家を片づけ、テオから送られたお金で家賃を払いました。1889年1月4日には、医師に頼んで短い外出を認めてもらい、付き添っています。1月7日に退院した日も、一日じゅうゴッホと一緒に過ごしました。その日、ゴッホはテオにこう書いています。
「ルーランは私たちにとてもよくしてくれました。この土地をよく知っている人なので、これからもたびたび頼ることになる確かな友人であり続けてくれると思います。」
ところが1月17日、ゴッホはテオに、ルーランが21日にはマルセイユへ移ることになったと伝えます。給料はほとんど上がらず、家族そろっての暮らしはマルセイユでは高くつくので、妻と子どもたちはすぐには一緒に行けませんでした。ゴッホの退院後まもなく描かれた「包帯をした自画像」も、この1月の作品です。
ルーランがアルルを離れたあとの1889年1月から2月にも、ゴッホは5点目と6点目の肖像を描いています。どちらも背景を花で埋めた華やかな絵で、6点目に描かれたひなげし、矢車菊、ひなぎく、ばらの赤と白と青は、フランス国旗の色を思わせます。政治好きの友人に贈った、最後の敬意だったのかもしれません。この2点は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とオランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵しています。
1889年5月、ゴッホは自ら望んでサン=レミの療養院へ移りました。しばらく手紙のやりとりは続きましたが、やがて2人は連絡を取らなくなります。

ルーラン一家の肖像、家族全員を描いた26点
ゴッホはルーランだけでなく、一家全員を描きました。ゴッホ美術館によれば、ルーラン一家の肖像は全部で26点あります。
妻のオーギュスティーヌ(1851〜1930年)は8点です。そのうち5点は「ゆりかごを揺らす女(ラ・ベルスーズ)」です。ベルスーズはフランス語で、子守歌と、ゆりかごを揺らす女の両方を意味します。ゴッホは本人に似せることより、母であることの象徴として描こうとしました。
長男のアルマン(1871年生まれ)は17歳のとき、鍛冶屋の見習いだったころに3点描かれています。次男のカミーユ(1877年生まれ)は11歳のときに描かれました。末娘のマルセル(1888年7月31日生まれ)は、生後数か月で5点、うち2点は母のひざの上の姿です。
ゴッホは一家に、肖像を1点ずつ贈りました。けれどもルーランは、1900年ごろ、手元の肖像などを画商アンブロワーズ・ヴォラールに450フランで売っています。55歳で郵便の仕事を退いたあとは、金属工として働いて少ない年金を補っていましたが、絵の値打ちは知りませんでした。ジョゼフ・ルーランは1903年、マルセイユで62歳で亡くなっています。
26点の肖像は今、オランダ、スイス、ドイツ、ブラジル、アメリカの美術館や個人のもとに散らばっています。ゴッホの家族のもとに残ったカミーユとマルセルの肖像各1点は、今はアムステルダムのゴッホ美術館が所蔵しています。2025年には、ボストン美術館(3月30日から9月7日)とゴッホ美術館(10月3日から2026年1月11日)で、一家の肖像を集めた展覧会が開かれました。

なぜ「郵便配達人ルーラン」は今も語り継がれるのか
郵便配達人は、美術の歴史のなかでほとんど描かれてこなかった人たちです。描かれても、よい知らせや悪い知らせを運ぶ名もない人物でした。ジョゼフ・ルーランは、その数少ない例外です。名前と顔が今も知られているのは、ゴッホが本人と家族を描いたからです。
肖像に残されたのは、ゴッホがいちばん苦しかった時期に寄り添った友人の姿です。耳の事件のあと、ルーランは家を片づけ、家賃を払い、退院の日を一緒に過ごしました。ゴッホが描いた6点の肖像は、その友情の記録でもあります。
「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」を見るには
いちばん有名な1点目(1888年、81.3×65.4cm)は、アメリカのボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)が所蔵しています。1928年に画廊ノードラーから買ったロバート・トリート・ペイン2世が、1935年に美術館へ寄贈しました。同じ館には、妻を描いた「ゆりかごを揺らす女」も1点あります。
ボストン美術館の開館は、日曜、月曜、水曜、土曜が10時から17時、木曜と金曜が10時から22時で、火曜休館です。大人の入館料は30ドルです。
ほかの5点は、デトロイト美術館、フィラデルフィアのバーンズ財団、スイスのヴィンタートゥール美術館、ニューヨーク近代美術館、オランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵しています。展示の状況は館によって変わるので、訪れる前に各館のサイトで確かめてください。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のゴッホのミュージアムグッズとして、「星月夜」のトートバッグ、「自画像」と「アルルの寝室」のスマートブックを販売しています。
よくある質問
「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」はどこにある?
いちばん有名な最初の1点(1888年、81.3×65.4cm)は、アメリカのボストン美術館が所蔵しています。ルーランの肖像は全部で6点あり、ほかはデトロイト美術館、バーンズ財団(フィラデルフィア)、ヴィンタートゥール美術館(スイス)、ニューヨーク近代美術館、クレラー=ミュラー美術館(オランダ)にあります。
「郵便配達人ルーラン」はいつ描かれた?
最初の2点は1888年7月末から8月初め、南仏アルルで描かれました。秋にさらに2点、ルーランがマルセイユへ移ったあとの1889年1月から2月に最後の2点が描かれています。
ジョゼフ・ルーランとはどんな人?
ジョゼフ・ルーラン(1841〜1903年、ジョセフ・ルーランとも表記)は、アルル駅で列車の郵便物の積み下ろしを受け持っていた郵便局員です。熱心な共和主義者で、政治の話が好きでした。ゴッホは手紙で何度も、彼をソクラテスにたとえています。
ゴッホはルーランを何枚描いた?
ジョゼフ・ルーランは油彩で6点、素描で3点です。妻オーギュスティーヌや子どもたちを含めると、ルーラン一家の肖像は全部で26点あります。
「郵便配達人」と「郵便配達夫」はどちらが正しい?
どちらも同じ絵を指します。ゴッホは手紙でルーランを「facteur」と呼び、英語の題は「Postman Joseph Roulin」です。日本では「郵便配達人」「郵便配達夫」の両方の訳が使われています。実際のルーランの仕事は、配達ではなく駅での郵便物の積み下ろしでした。
ルーランはゴッホの耳の事件とどう関わっている?
1888年12月23日の事件でゴッホが入院したあと、ルーランはできるだけ見舞い、テオと連絡を取り、黄色い家の片づけや家賃の支払いを引き受けました。1889年1月7日の退院の日も一日じゅう一緒にいました。その月の下旬、ルーランはマルセイユへ転勤しています。
ゴッホのグッズはどこで買える?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のゴッホのミュージアムグッズを販売しています。「星月夜」のトートバッグ、「自画像」と「アルルの寝室」のスマートブックを取り扱っています。