ゴッホ「夜のカフェ」とは?赤と緑で描いたアルルの夜の店と、イェール大学までの道のり
泊まっていた店を3晩かけて描いた一枚。ゴッホはそこを、人が身を滅ぼし、気が狂い、罪を犯しうる場所として描きました

夜のカフェの絵で、私は、カフェとは人が身を滅ぼし、気が狂い、罪を犯しうる場所だということを表そうとしました。
「夜のカフェ」とは
赤い壁、緑の天井、黄色い床。緑のビリヤード台が床に長い影を落とし、天井のランプのまわりでは光の輪が渦を巻いています。フィンセント・ファン・ゴッホが1888年9月に南仏アルルで描いた「夜のカフェ」(フランス語 Le Café de nuit、英語 The Night Café)です。72.4×92.1cmの油彩画で、アメリカ・コネチカット州ニューヘイヴンのイェール大学美術館が所蔵しています。
描かれたのは、アルルのラマルティーヌ広場30番地にあったカフェ・ド・ラ・ガールの店内です。店の名は「駅のカフェ」という意味で、夜通し開いている店でした。ゴッホ自身もこの店に部屋を借りて暮らしていました。ビリヤード台のそばに白い服で立つのが店の主人で、ゴッホは手紙で、主人の白い服がこの炉のような部屋の中でレモン色や淡く光る緑になると書いています。画面の右下には、「Vincent」の署名とともに「le café de nuit」という題も書かれています。
同じ月の数日後、ゴッホは別の広場のカフェを外から描きました。星空の下に黄色いテラスが広がる「夜のカフェテラス」です。題は似ていますが、店も場所も、絵が伝える気分もまったく違います。弟テオへの手紙で、ゴッホはこの絵についてこう書きました。
「赤と緑で、人間の恐ろしい情念を表そうとしました。」
くつろげる店の絵ではなく、赤と緑がぶつかり合う、息苦しいほどの夜の室内。それが「夜のカフェ」です。

制作の背景、泊まっていた駅前のカフェで
1888年2月、ゴッホはパリを離れてアルルに移りました。ゴッホ書簡集の注釈によれば、5月からはジョゼフ・ジヌーと妻マリーが営むカフェ・ド・ラ・ガールに部屋を借り、9月17日にラマルティーヌ広場の「黄色い家」へ移るまでここで暮らしました。
8月6日のテオへの手紙で、ゴッホは泊まっている店の中を、夜にガス灯の明かりで描き始めるつもりだと書いています。このあたりで「夜のカフェ」と呼ばれる一晩中開いている店で、宿代のない人や、酔いすぎてほかで泊めてもらえない人の逃げ場になっていると説明しています。
実際に描いたのは9月の初めでした。9月8日の手紙によれば、宿代のことで主人と言い争い、払いすぎたお金を取り返すために、この店をまるごと描いてやると言ったのがきっかけです。主人と、すでに肖像を描いていた郵便配達人ジョゼフ・ルーラン、夜をうろつく客たち、そしてゴッホ自身が大喜びするなか、3晩続けて夜通し描き、昼に眠りました。同じ手紙にはこうあります。
「夜は昼よりもずっと生き生きとして、豊かな色をしていると、よく思います。」
このころゴッホは、黄色い家にポール・ゴーギャンを迎える準備を進めていました。このページの画像は、同じ1888年に描いてゴーギャンに贈った自画像で、今はハーバード美術館が所蔵しています。9月の妹ヴィルへの手紙で、ゴッホは日本人のように見える新しい自画像を描いたと書いていて、ゴッホ書簡集の注釈はそれをこの絵としています。

技法と色彩、赤と緑の戦い
9月8日のテオへの手紙で、ゴッホは店の中の色を一つずつ説明しています。部屋は血のような赤とくすんだ黄色、真ん中に緑のビリヤード台、レモン色の4つのランプがオレンジと緑の光を放っています。そして、いたるところで、さまざまな緑と赤が戦い合い、対立していると書きました。妹ヴィルへの手紙では、血のような赤から淡いピンクまで6、7種類の赤を使い、同じ数の淡い緑や濃い緑と対比させたと説明しています。
天井から下がるランプは、黄色の絵具を厚く置き、短い筆跡を輪のように重ねて描かれています。光が空気を震わせているように見える描き方です。イェール大学美術館の解説も、さまざまな赤と緑とともに、厚く置いた鮮やかな黄色に触れています。
カウンターの淡い緑と、その上のピンクの花束。ゴッホは、ビリヤード台の血のような赤と黄緑が、ルイ15世風の柔らかな緑のカウンターと、そこに置かれたピンクの花束と対比していると書いています。
テーブルに突っ伏して眠り込む客たちは、がらんとした部屋の中で小さく描かれています。ゴッホは、眠り込んだならず者たちに紫や青を使ったと書きました。
床の黄色い筆跡の上には、赤い「Vincent」の署名と、その下に「le café de nuit」の文字があります。イェール大学美術館の記録でも、署名とこの題がそろって記されています。




身を滅ぼし、気が狂い、罪を犯しうる場所
絵を仕上げた翌日の9月9日、ゴッホはテオに、この絵の素描を送ったと知らせました。同じ手紙で、絵に込めたことをこう書いています。
「夜のカフェの絵で、私は、カフェとは人が身を滅ぼし、気が狂い、罪を犯しうる場所だということを表そうとしました。」
そのために使ったのが色の対比でした。柔らかなピンク、血のような赤、ワインのおりのような赤。ルイ15世風の柔らかな緑やヴェロネーゼの緑と、黄緑や硬い青緑。それらすべてを、淡い硫黄色の、地獄の炉のような空気の中に置いたといいます。ゴッホ書簡集の注釈は、この一節にトルストイの戯曲「闇の力」とゾラの小説「居酒屋」への目配せがある可能性を指摘しています。
それでもゴッホは、見かけには日本風の陽気さと、ドーデの小説の主人公タルタランのような人のよさをまとわせたとも書いています。画商テルステーフがこの絵を見たら、アルコール中毒の幻覚そのものだと言うだろう、と冗談めかしてもいます。恐ろしさと明るさを同じ画面に置くことが、ゴッホの狙いでした。

「もっとも醜い絵の一つ」と書いた一枚
9月8日の手紙で、ゴッホは、この絵で主人に払いすぎた宿代を取り返そうとは言い張らないと書き、その理由をこう続けます。
「この絵は、私が描いたなかでもっとも醜いものの一つです。」
そして、オランダ時代の「ジャガイモを食べる人々」と、違いはあっても同じ重みを持つ絵だと書きました。数日後の手紙では、「種まく人」やこの絵のような誇張した習作は、ふだんはひどく醜く思えるが、何かに心を動かされたときには、もっと深い意味を持つ唯一の絵に見えると打ち明けています。9月9日の手紙でも、構成した絵の試みと呼べるのは、まだ「種まく人」と「夜のカフェ」くらいだと書いています。
友人の画家エミール・ベルナールへの手紙でも、ゴッホはこの店について何度か書いています。9月の手紙では、ときどき娼婦が男と座っているのを見かける店だと書き、10月初めの手紙ではこう念を押しました。
「私の夜のカフェは娼家ではありません。夜をうろつく人たちが、うろつくのをやめる店です。」
テーブルに突っ伏して一晩を過ごすので、もううろつかない、という意味です。

店の外の「夜のカフェテラス」と、ゴーギャンの「夜のカフェ」
「夜のカフェ」を仕上げた数日後、ゴッホは今度は店の外の夜を描きました。フォルム広場に面したカフェのテラスを描いた「夜のカフェテラス」(クレラー=ミュラー美術館所蔵)です。妹ヴィルへの手紙では、外のカフェを描く仕事に追われていたと書き、黄色いランプが照らすテラスと、星をちりばめた青い空を説明しています。赤と緑がぶつかる息苦しい室内と、青と黄色の開かれた広場。同じ月に描いた2枚は、夜の正反対の顔を見せています。
カフェ・ド・ラ・ガールは、その後ほかの画家の絵にも登場します。10月23日にアルルに着いたポール・ゴーギャンは、11月の初めには、ゴッホが描いたのと同じこの店の絵に取り組んでいました。ゴッホはテオに、ゴーギャンが同じ夜のカフェを描いていると知らせ、11月10日の手紙ではほとんど仕上がったと書いています。このページの画像がその絵で、ゴッホ書簡集の注釈によれば、今はモスクワのプーシキン美術館が所蔵しています。手前でほおづえをつく女性は、店のおかみマリー・ジヌーとされています。
ゴッホも同じころ、マリー・ジヌーをモデルに「アルルの女」を描きました。テオへの手紙では、30号のカンヴァスに1時間で一気に描いたと書いています。

なぜ「夜のカフェ」は今も語り継がれるのか、モスクワからイェールへ
「夜のカフェ」が今も語られるのは、店の見た目よりも、そこに漂う気分を色で描こうとした絵だからです。そしてゴッホ自身が、赤と緑で何を表そうとしたかを手紙に書き残しています。
絵がたどった道のりも劇的です。イェール大学美術館の来歴によれば、ゴッホは1889年5月にこの絵をパリのテオに渡し、1891年にテオの妻ヨーの手に移りました。1907年4月にパリの画廊ベルネーム=ジューヌに売られ、1908年5月ごろ、ニコライ・リャブシンスキーを通じてモスクワの収集家イワン・モロゾフのものになります。
1918年12月18日、モロゾフのコレクションはソビエト・ロシアに国有化され、1919年にモスクワの国立近代西洋美術館に移されました。1933年、おそらくベルリンのマティーセン画廊を経て、ニューヨークのノードラー画廊を通じ、5月9日にアメリカの収集家スティーヴン・カールトン・クラークに売られます。1903年にイェール大学を卒業したクラークが1961年に遺贈し、絵はイェール大学美術館の所蔵品になりました。
2009年には、モロゾフのひ孫が所有権を主張して裁判になりましたが、2014年3月に連邦地方裁判所が、2015年10月に連邦控訴裁判所がイェール大学の側を支持しました。
「夜のカフェ」を見るには、イェール大学美術館とグッズ情報
「夜のカフェ」は、アメリカ・コネチカット州ニューヘイヴンのイェール大学美術館(Yale University Art Gallery)が所蔵しています。所在地はチャペル・ストリート1111番地で、入館は無料です。開館は火曜から金曜が10時から17時(9月から6月の木曜は20時まで)、土曜と日曜が11時から17時で、月曜は休館です。2026年11月1日に美術館の作品ページを見た時点では、2階のヨーロッパ美術の展示室で公開中とされていました。展示は変わることがあるため、訪れる前に確かめることをおすすめします。
店の外を描いた「夜のカフェテラス」は、オランダのオッテルローにあるクレラー=ミュラー美術館にあります。同じ1888年9月にアルルで描いた「ローヌ川の星月夜」は、パリのオルセー美術館の所蔵です。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵の「ローヌ川の星月夜」をモチーフにしたスノードームと扇子、「夜のカフェテラス」と2枚の星月夜から着想を得たストール、「アルルの寝室」のポスターを販売しています。
よくある質問
ゴッホの「夜のカフェ」はどこにある?
アメリカ・コネチカット州ニューヘイヴンのイェール大学美術館が1961年から所蔵しています。入館は無料で、月曜は休館です。
「夜のカフェ」に描かれた店はどこ?
アルルのラマルティーヌ広場30番地にあったカフェ・ド・ラ・ガールです。ジョゼフ・ジヌーと妻マリーが営む夜通し開いている店で、ゴッホは1888年5月から9月17日までここに部屋を借りていました。
「夜のカフェ」はいつ描かれた?
1888年9月の初めです。9月8日のテオへの手紙で、3晩続けて夜通し描き、昼に眠ったと書いています。
「夜のカフェ」のサイズは?
イェール大学美術館の表記では72.4×92.1cmの油彩画です。
「夜のカフェ」と「夜のカフェテラス」は同じ絵?
別の絵です。「夜のカフェ」はゴッホが泊まっていたカフェ・ド・ラ・ガールの店内を描いた絵で、イェール大学美術館にあります。「夜のカフェテラス」はその数日後にフォルム広場のカフェを外から描いた絵で、オランダのクレラー=ミュラー美術館にあります。
「人が身を滅ぼし、気が狂い、罪を犯しうる場所」はどの手紙の言葉?
1888年9月9日にアルルから弟テオに宛てた手紙の言葉です。ゴッホ書簡集(ファン・ゴッホ美術館などが編集)では677番の手紙にあたります。前日の9月8日の手紙では、赤と緑で人間の恐ろしい情念を表そうとしたと書いています。
なぜ「夜のカフェ」はアメリカのイェール大学にある?
モスクワの収集家イワン・モロゾフのものだった絵が1918年に国有化され、1933年にアメリカの収集家スティーヴン・カールトン・クラークに売られました。イェール大学の卒業生だったクラークが1961年に遺贈し、イェール大学美術館の所蔵品になりました。
Museum Boxで買えるゴッホのグッズは?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵の「ローヌ川の星月夜」のスノードームと扇子、ゴッホの夜の絵から着想を得たストール、「アルルの寝室」のポスターなどを販売しています。