ゴッホ「アルルの跳ね橋」とは?ラングロワ橋の4枚と「日本」を重ねた南仏

アルルに着いて3週間あまりで描いた運河の跳ね橋。ゴッホは南仏の光の中に、浮世絵で見た日本を探していました

フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)」(1888年3月)オッテルロー・クレラー=ミュラー美術館所蔵
日本にいるような気がするのです。

「アルルの跳ね橋」とは

黄色い跳ね橋の上を、幌をかけた小さな馬車が渡っていきます。空と運河は青く、手前の岸では女性たちが洗濯をしています。フィンセント・ファン・ゴッホが1888年3月に描いた「アルルの跳ね橋」は、運河にかかる「ラングロワ橋」を描いた油彩画です。英語では The Langlois Bridge at Arles with Women Washing、所蔵するオランダのクレラー=ミュラー美術館は「Bridge at Arles (Pont de Langlois)」と呼んでいます。

大きさは54×64cmで、美術館の表記では1888年3月中ごろの作品です。ゴッホは3月16日ごろの弟テオへの手紙で、15号のカンヴァスに跳ね橋を描いて今日持ち帰ったと知らせ、その様子をこう書いています。「川も青く、岸はオレンジ色で緑があり、上っ張りと色とりどりの帽子の洗濯女たちが一団になっています」。

ゴッホがパリから南仏のアルルに着いたのは、1888年2月20日でした。この絵は、それから3週間あまりのうちに描かれました。ゴッホはこの跳ね橋を何度も描き、クレラー=ミュラー美術館の解説によれば、油彩4点、素描2点、水彩1点、手紙の中のスケッチ1点が残っています。

日本では「アルルの跳ね橋」の名で親しまれています。後期印象派の画家ゴッホが、南仏で最初に手がけた連作の一枚です。

フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年3月)跳ね橋と馬車のディテール、クレラー=ミュラー美術館所蔵

制作の背景、雪のアルルで見た「日本」

1888年2月、34歳のゴッホは約2年暮らしたパリを離れ、南仏アルルに移りました。このページの画像は、パリを発つ前の1887年12月から1888年2月に描いた「画家としての自画像」で、アムステルダムのゴッホ美術館によれば、パリで描いた最後の作品です。

アルルに着いた翌日の手紙で、ゴッホは60cm以上の雪が積もっていると書き、雪の下の景色は日本人が描いた冬景色のようだったと伝えています。ゴッホとテオはパリで浮世絵を集めていて、パリ時代の「タンギー爺さんの肖像」の背景にも浮世絵を描き込んでいます。南仏に来たゴッホは、浮世絵で見た明るい光と色を、目の前の景色に探していました。

3月16日ごろ、跳ね橋の絵を描いたことを報告した同じ手紙に、ゴッホはこう書きました。「日本にいるような気がするのです」。まだ南仏のいつもの輝きは何も見ていないけれど、とも添えています。

3月18日には、パリの画家仲間エミール・ベルナールに宛てて、「この土地は、空気の澄みきったところと明るい色の効果で、日本と同じくらい美しく思えます」と書き送りました。この手紙でゴッホは、跳ね橋の別の習作のスケッチを描き、洗濯女たちのいる同じ跳ね橋の習作ももう1枚あると知らせています。それが、この「アルルの跳ね橋」です。

フィンセント・ファン・ゴッホ「画家としての自画像」(1887年12月から1888年2月)アムステルダム・ゴッホ美術館所蔵

技法と色彩、青と黄色とオレンジの対比

跳ね橋を渡る馬車は、黄色い幌と車輪が細い筆で描き込まれています。橋の木組みは黄色に塗られ、その輪郭や影には青が使われています。黄色と青という反対の色を並べることで、どちらの色もいっそうあざやかに見えます。橋を吊り上げる鎖や綱まで、ゴッホは一本ずつ描いています。

洗濯をする女性たちは、赤や白の帽子、色とりどりの上っ張りで描き分けられています。テオへの手紙に書いた「色とりどりの帽子」は、絵の中でもはっきり見てとれます。

運河の水面には、輪のような波紋が、短い曲線の筆づかいで重ねられています。波紋の間には、石積みの橋台の黄色が縦に映り込んでいます。テオへの手紙に書いたとおり、川は空と同じ青で塗られ、手前の岸のオレンジと向かい合っています。

岸の草は、緑と黄土色とオレンジの太い筆づかいで描かれています。草の下には「Vincent」の署名があります。ゴッホの書簡全集の注によれば、この署名の上にはもともと献辞があり、のちに削られました。

フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年)跳ね橋を渡る馬車のディテールフィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年)洗濯をする女性たちのディテールフィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年)水面の波紋のディテールフィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年)岸の草と署名のディテール

運河の跳ね橋、「イギリス人の橋」のその後

描かれたのは、アルルと地中海沿いのポール=ド=ブックを結ぶ、アルル・ブック運河にかかっていた木造の跳ね橋です。クレラー=ミュラー美術館は、町のすぐ南にあった跳ね橋と説明しています。橋板を綱で引き上げて、船を通す仕組みでした。ケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館は、この跳ね橋がゴッホに故郷オランダを思い出させた、と解説しています。

ゴッホ自身は手紙の中でこの橋を「le pont de l’Anglais」、つまり「イギリス人の橋」と呼んでいます。書簡全集の注によれば、当時はこの呼び名がよく使われ、のちに「ラングロワ橋」と呼ばれるのが一般的になりました。

橋そのものは、今は残っていません。アルルの郷土誌に載ったリュシアン・リムールの記録(1981年から1982年)によれば、ラングロワ橋は1930年から1932年に、すぐそばに架けた鉄筋コンクリートの橋に置き換えられ、取り外されました。1944年8月には、退却するドイツ軍がこの運河の橋をフォスの橋を除いてすべて爆破します。

1959年、アルルの観光協会はその爆破を免れたフォスの跳ね橋の部材を引き取り、別の場所にある運河の閘門にラングロワ橋の姿を再現して組み立てました。1962年9月16日に公開され、今もアルル観光局が「ファン・ゴッホ橋」として町の外の見どころに案内しています。このページの画像は、ゴッホが1888年4月に同じ構図で描いた2枚目の油彩で、個人が所蔵しています。

フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋」(1888年4月)同じ構図の2枚目、個人蔵

「日本に相当するところ、南仏」

ゴッホがアルルを日本に重ねていたことは、手紙からはっきりわかります。3月18日のベルナールへの手紙には、運河の水が浮世絵で見るようにエメラルドと深い青の色面をつくっている、と書き、さらにこう続けました。「日本人が自分の国で進歩していないとしても、その芸術がフランスで受け継がれていることは疑いありません」。このページの画像は、その手紙の1ページ目です。上には跳ね橋と恋人たちのスケッチがあり、色の名前が書き込まれています。この手紙は今、ニューヨークのモルガン・ライブラリー&ミュージアムが所蔵しています。

6月5日ごろのテオへの手紙では、生活費が高くても南仏にとどまる理由をこう書いています。ぼくたちは日本の絵が好きで、その影響を受けてきた、印象派の画家はみなそうだ、それなのに「日本へ、つまり日本に相当するところである南仏へ、行かないでいられるでしょうか」。そして「だから結局のところ、新しい芸術の未来は南仏にあると思うのです」と続けました。

ゴッホ自身の言葉は「日本に相当するところ、南仏」でした。ゴッホにとってアルルは、浮世絵の国の代わりに行ける場所だったのです。ゴッホ美術館も、同じ跳ね橋を描いた別の1枚について、道を大きな対角線にした構図は浮世絵で見たものだと解説しています。

フィンセント・ファン・ゴッホ、エミール・ベルナール宛ての手紙(1888年3月18日)跳ね橋と恋人たちのスケッチ、ニューヨーク・モルガン・ライブラリー&ミュージアム所蔵

4枚の油彩、テルステーフへの贈り物とゴッホ美術館の1枚

クレラー=ミュラー美術館の「アルルの跳ね橋」は、もともとハーグの画商テルステーフに贈るための絵でした。4月3日ごろ、ゴッホはテオに「毎日は描けないような、おもしろいものを見つけました」と書き、この絵にはロイヤルブルーと金の特製の額が合うと、額の角のスケッチまで添えています。

ところが5月、ゴッホはテオに、テルステーフが気を悪くしそうなら手元に置いて、献辞を削ってくれていいと伝えます。書簡全集の注によれば、献辞は実際に削られ、テルステーフがこの絵を受け取ることはありませんでした。ゴッホは4月に同じ構図の2枚目を描いていて、この2枚目は個人が所蔵しています。

このページの画像は、アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵する「ラングロワ橋」(1888年3月、59.6×73.6cm)です。3月25日ごろの手紙でゴッホは、跳ね橋の夕景の習作を家で仕上げようとして台なしにし、すぐに同じ題材を別のカンヴァスで、灰色の色調で人物なしに描き直したと書いています。ゴッホ美術館の解説でも、空は灰色で、洗濯女たちは描かれず、向こう岸に白い布が干されています。

もう1枚の油彩はケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館にある「跳ね橋」(1888年、49.5×64.5cm)で、構図を変え、日傘をさした女性が橋を渡る姿を描いています。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ラングロワ橋」(1888年3月)アムステルダム・ゴッホ美術館所蔵

なぜ「アルルの跳ね橋」は今も語り継がれるのか

「アルルの跳ね橋」が多くの人に愛されるのは、南仏に着いたばかりのゴッホが感じた喜びが、そのまま色になっているからです。青い空と運河、黄色い橋、オレンジの岸。パリで学んだ明るい色と、浮世絵から学んだ平らな色面が、ここで一つになりました。

ゴッホは同じ橋を、晴れた日と曇りの日、洗濯女のいる岸と道のある岸、別の方角からと、描き方を変えて何度も描いています。ヴァルラフ・リヒャルツ美術館は、ゴッホが遠近法の枠を使って構図を決め、絵具の下に鉛筆の線が見つかったと解説しています。思いつきで描く画家という伝説とは違う、じっくり取り組む姿がこの連作から見えてきます。このページの画像は、そのケルンの1枚です。

本物の橋は失われましたが、絵の中の跳ね橋は、アルル近郊に「ファン・ゴッホ橋」が再現されるほど愛されてきました。この年の夏から秋にかけて、ゴッホはアルルで「ひまわり」や「ローヌ川の星月夜」を描きます。「アルルの跳ね橋」は、その実り多い1年の始まりを告げる一枚です。

フィンセント・ファン・ゴッホ「跳ね橋」(1888年)ケルン・ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵

「アルルの跳ね橋」を見るには、クレラー=ミュラー美術館とグッズ情報

「アルルの跳ね橋」は、オランダのオッテルローにあるクレラー=ミュラー美術館が所蔵しています。美術館はデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園の中にあり、入館には公園と美術館の共通券が必要です(大人€27.75)。火曜から日曜と祝日の10時から17時まで開いています。同じ美術館は、アルル時代の「夜のカフェテラス」や「種まく人」も所蔵しています。

2026年9月15日から2027年1月3日まで、同館では所蔵するゴッホの油彩88点をすべて並べる展覧会「Van Gogh, All Our Paintings」が開かれています。全点が並ぶのは1984年以来です。

灰色の空の「ラングロワ橋」はアムステルダムのゴッホ美術館、日傘の女性の「跳ね橋」はケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館にあります。

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵のゴッホ作品から、同じアルル時代の「アルルの寝室」のポスターや、「ローヌ川の星月夜」の扇子とトートバッグなどを販売しています。

よくある質問

ゴッホの「アルルの跳ね橋」はどこにある?

オランダのオッテルローにあるクレラー=ミュラー美術館が所蔵しています。デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園の中にあり、公園と美術館の共通券で入館します。2026年9月15日から2027年1月3日までは、同館のゴッホの油彩88点をすべて並べる展覧会が開かれています。

「アルルの跳ね橋」はいつ描かれた?大きさは?

1888年3月中ごろ、ゴッホがアルルに着いて3週間あまりのころに描かれました。3月16日ごろの手紙で、テオに描き上げたことを知らせています。大きさは54×64cmの油彩です。

ラングロワ橋の絵は何枚ある?

クレラー=ミュラー美術館の解説では、油彩4点、素描2点、水彩1点、手紙の中のスケッチ1点です。油彩はクレラー=ミュラー美術館、ゴッホ美術館、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館に1点ずつあり、もう1点は個人蔵です。数え方は資料によって少し異なります。

ラングロワ橋は今もある?

ゴッホが描いた橋は1930年代に新しい橋に置き換えられ、残っていません。1962年に、フォスの跳ね橋の部材を使って別の場所に再現した橋が公開され、アルル観光局が「ファン・ゴッホ橋」として案内しています。

ゴッホはなぜアルルを日本に重ねたの?

ゴッホとテオはパリで浮世絵を集めていて、ゴッホは浮世絵の明るい色と光を南仏に求めました。手紙では「日本にいるような気がする」と書き、南仏を「日本に相当するところ」と呼んでいます。

Museum Boxで買えるゴッホのグッズは?

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵のゴッホ作品をモチーフにした「アルルの寝室」のポスター、「ローヌ川の星月夜」の扇子やトートバッグ、6作品のコースターなどを販売しています。