ゴッホ「タンギー爺さんの肖像」とは?3枚の違いと背景の浮世絵

絵具を売り、代金の代わりに絵を受け取った画材商。ゴッホは彼を日本の版画で囲んで描いた

フィンセント・ファン・ゴッホ「タンギー爺さんの肖像」(1887年)パリ・ロダン美術館所蔵
私の仕事はすべて、ある程度は日本の芸術を土台にしています。

「タンギー爺さんの肖像」とは

帽子をかぶった初老の男が、両手をおなかの上で組み、正面を向いて座っています。その背後の壁は、富士山、桜、着物姿の人物など、色鮮やかな日本の版画で埋めつくされています。フィンセント・ファン・ゴッホが1887年にパリで描いた「タンギー爺さんの肖像」です。日本では「タンギーじいさん」「タンギー親父の肖像画」とも呼ばれ、フランス語では「ペール・タンギー(Le Père Tanguy)」と呼ばれます。

描かれているのは、パリのクローゼル通りで小さな画材店を営んでいたジュリアン・フランソワ・タンギー(1825〜1894)です。絵具を売るだけでなく、お金のない画家からは代金の代わりに絵を受け取ることも多く、画家たちから親しみを込めて「ペール(とっつぁん)・タンギー」と呼ばれていました。

ゴッホはタンギーの肖像を3点描いています。この記事のメインの1点は、縦92cm、横75cmの油彩で、パリのロダン美術館(ミュゼ・ロダン)が所蔵しています。ロダン美術館は、ゴッホがこの絵でタンギーを、ほとんど日本の賢者のように描いていると説明しています。

ゴッホ「タンギー爺さんの肖像」(1887年)顔と背景の日本の版画のディテール、ロダン美術館所蔵

制作の背景、パリのゴッホとタンギーの店

1886年3月、ゴッホは弟テオが画商として働くパリへ移りました。それまでオランダで描いていた暗い色の絵は、印象派や新印象派の絵に触れて、みるみる明るくなっていきます。

そのころのパリで、売れない若い画家たちが集まっていたのがタンギーの店でした。タンギーは1873年からクローゼル通り14番地で画材店を開き、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴーギャン、ロートレック、そしてセザンヌらが客でした。セザンヌにとってはパリで最初の窓口となった人で、ツケで画材を渡し、その絵を店で人々に見せています。ゴッホの絵を売りに出した最初の一人でもありました。

ゴッホがタンギーを最初に描いたのは1887年の初めごろです。茶色を中心にした小さな肖像で、背景に日本の版画はまだありません。その後、1887年のうちに、日本の版画を背景にした2点を描きました。そのうちの1点がロダン美術館の絵です。

ゴッホはこのころ、テオと一緒に日本の版画を熱心に買い集めていました。画商ジークフリート・ビングの店から買った版画は600枚を超えます。翌1888年7月、南仏アルルからテオに宛てた手紙には、こう書いています。

「私の仕事はすべて、ある程度は日本の芸術を土台にしています。」

フィンセント・ファン・ゴッホ「麦わら帽子の自画像」(1887年)メトロポリタン美術館所蔵

技法と色彩、背景の浮世絵はどの版画か

背景の版画は、ゴッホとテオが集めていた日本の版画をもとに描かれています。研究によって、いくつかは元になった版画がわかっています。

  • 右上の桜の景色は、歌川広重が東海道の宿場、石薬師の義経桜を描いた1855年の版画です。
  • 中央上、タンギーの帽子の上に見える富士山は、広重の2枚を組み合わせたものとされています。東海道の吉原の浮島ヶ原を描いた1855年の版画と、「富士三十六景」の相模川(1858年)です。ゴッホはこの3枚をすべて持っていました。
  • 左の中ほどに見える女性の顔は、歌川国貞(三代歌川豊国)が1861年に描いた、三浦屋の高尾に扮した役者、三代目岩井粂三郎の版画とされています。

ゴッホは版画をそのまま写したのではなく、色を強め、並べ方を変えて、タンギーを囲む一つの画面に組み直しています。

タンギー本人の描き方にも、パリで学んだことが表れています。ロダン美術館は、混ぜない純粋な色、補色どうしの対比、目に見える筆づかい、奥行きを抑えた平らな画面という、新印象派の技法が使われていると説明しています。タンギーは正面を向き、物思いにふけるように座り、両手をおなかの上で組んでいます。背景の明るい赤や緑、黄に対して、青い上着が人物を落ち着いた姿に見せています。

ゴッホ「タンギー爺さんの肖像」タンギーの顔と帽子のディテールゴッホ「タンギー爺さんの肖像」背景の富士山の版画のディテールゴッホ「タンギー爺さんの肖像」組んだ手のディテールゴッホ「タンギー爺さんの肖像」背景の役者絵のディテール

タンギー爺さんの肖像は3枚、それぞれの違い

「タンギー爺さんの肖像」は1枚だけではありません。ゴッホはタンギーを油彩で3回描いていて、ロダン美術館も「3点の肖像」と記しています。

1枚目(1887年初めごろ)は、コペンハーゲンのニュー・カールスベア美術館が所蔵しています。約47×38.5cmの小さな絵で、茶色が中心の落ち着いた色づかいです。背景に日本の版画はありません。

2枚目と3枚目(どちらも1887年)は、背景を日本の版画で埋めた肖像です。1点は、パリのロダン美術館が所蔵する縦92cm、横75cmの大きな絵です。もう1点は個人蔵で、アメリカの俳優エドワード・G・ロビンソン夫妻が持っていたのち、ギリシャの海運王スタヴロス・ニアルコスの一族のもとにあります。

「タンギー爺さん 2枚目」と探されるのは、この浮世絵を背景にした2点のことが多いようです。ほかに、背景に富士山の場面を描いたタンギーの素描(1887年10月から12月)も残っています。

タンギーはどんな人だったのか

ジュリアン・フランソワ・タンギーは1825年6月28日、フランス西部のブルターニュ地方に生まれました。左官などの仕事を経て絵具を扱うようになり、1855年にルネ・ブリアンと結婚し、1860年に夫婦でパリへ出ます。1868年ごろからは、バルビゾンやアルジャントゥイユなど、画家が集まる土地へ絵具を売り歩きました。

1871年のパリ・コミューンでは、コミューン側に加わって捕らえられ、軍法会議を経てブレストへ送られています。1873年には、クローゼル通りに画材店を開きました。

タンギーは、絵具代を払えない画家から絵を受け取り、店の奥の小さな部屋に並べました。画家のエミール・ベルナールは、印象派の絵があふれるこの店に入るのは、美術館を訪ねるようだったと語っています。画家たちに食べ物やお金を分け与えることもあったといいます。一方、妻のほうは、たまったツケの支払いを気にしていたと伝えられています。

タンギーは1894年2月6日、パリで68歳で亡くなりました。作家オクターヴ・ミルボーは2月13日の新聞「エコー・ド・パリ」で彼をたたえ、ミルボーの呼びかけで、画家仲間が自分の作品を出し合って、6月2日にオテル・ドルーオで残された妻のための競売を開きました。

ゴッホの死後と、ロダンの手に渡った肖像

ゴッホが1890年7月に亡くなったとき、タンギーの手元にはゴッホの絵もありました。ロンドンのコートールド美術館にある「耳に包帯をした自画像」も、そのとき彼が持っていた1点です。どういう経緯でタンギーのもとに渡ったのかは、わかっていません。

ロダン美術館の「タンギー爺さんの肖像」は、タンギーが手放さなかった絵とされています。タンギーの死後、娘から彫刻家オーギュスト・ロダンが買ったと伝えられていますが、ロダン美術館自身は、ロダンが1894年に買ったのだろうかと問いの形で書いていて、細かな経緯ははっきりしていません。

ロダンは日本の版画を自分でも持っていて、ゴッホを高く評価していました。アカデミックな決まりごとを壊した見事な画家で、光をとらえる才能もあった、という意味の言葉を残しています。この絵は今、ロダンが集めたほかの美術品とともにロダン美術館の所蔵となっています。

パリ時代のゴッホと日本の版画

「タンギー爺さんの肖像」が描かれた1887年、ゴッホはパリで数多くの肖像と自画像を描いていました。メトロポリタン美術館は、ゴッホがパリ時代に20点を超える自画像を描いたと説明しています。ゴッホの自画像の多くはこの時期のものです。

同じ1887年には、広重の版画を油絵で描き写した「花咲く梅の木(広重による)」と「雨の大橋(広重による)」も描いています。どちらもアムステルダムのゴッホ美術館が所蔵しています。浮世絵の色や線をまず写して学び、それを自分の絵の中に取り込んだのが「タンギー爺さんの肖像」でした。

日本への関心は、その後もゴッホの絵に残り続けます。アルルではのちに耳に包帯をした自画像の背景にも日本の版画を描き込み、1890年2月には、生まれたばかりの甥のために、日本の絵を思わせる「アーモンドの花」を描きました。同じころのパリでは、モネの「ラ・ジャポネーズ」のように、ほかの画家たちも日本の美術に強く惹かれていました。

なぜ「タンギー爺さんの肖像」は今も語り継がれるのか

「タンギー爺さんの肖像」は、一人の画材商の肖像であると同時に、ゴッホが日本の版画から何を学んだかを見せてくれる絵です。背景の版画の元がいくつも突き止められているので、ゴッホが実際に持っていた版画と見比べることもできます。

この絵にはもう一つ、近代の絵画を陰で支えた人の記録という意味があります。売れない画家に画材を渡し、代わりに受け取った絵を店に並べたタンギーの店からは、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなど、のちに後期印象派と呼ばれる画家たちが育っていきました。ゴッホが描いた穏やかなタンギーの姿は、その時代の画家たちの恩人の顔として、今も多くの人に親しまれています。

「タンギー爺さんの肖像」を見るには

ロダン美術館の「タンギー爺さんの肖像」は、パリ7区のロダン美術館(Musée Rodin)が所蔵しています。ロダンが晩年にアトリエとして使ったビロン館とその庭園を使った美術館で、「考える人」「地獄の門」などロダンの彫刻とともに、ロダンが集めた絵画も持っています。所蔵の絵画は展示替えや貸し出しで見られない時期もあるため、この絵を目当てに行く場合は、事前に美術館に確かめると安心です。

住所は77 Rue de Varenne, 75007 Parisで、最寄り駅はメトロ13号線のヴァレンヌ駅です。開館は火曜から日曜の10時から18時30分まで、月曜休館です。入館料は時期によって変わるので、美術館のサイトで確かめてください。

1枚目の肖像はコペンハーゲンのニュー・カールスベア美術館が所蔵しています。浮世絵を背景にしたもう1点は個人蔵で、ふだんは見ることができません。

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、ゴッホの「自画像」と「アルルの寝室」のノート(スマートブック)、オルセー美術館所蔵の「星月夜」のトートバッグを取り扱っています。

よくある質問

「タンギー爺さんの肖像」はどこにある?

背景を日本の版画で埋めた有名な1点(1887年、92×75cm)は、パリ7区のロダン美術館(ミュゼ・ロダン)が所蔵しています。ほかに、1枚目がコペンハーゲンのニュー・カールスベア美術館に、浮世絵を背景にしたもう1点が個人蔵としてあります。

「タンギー爺さんの肖像」は何枚ある?

ゴッホが油彩で描いたタンギーの肖像は3点です。1887年初めごろの茶色を中心にした1点(ニュー・カールスベア美術館)と、1887年に日本の版画を背景にして描いた2点(ロダン美術館と個人蔵)です。ほかに素描も残っています。

「タンギー爺さんの肖像」はいつ描かれた?

3点とも1887年、ゴッホがパリで暮らしていたころの作品です。1枚目は1887年の初めごろ、浮世絵を背景にした2点はその年のうちに描かれました。

タンギー爺さん(ペール・タンギー)とはどんな人?

ジュリアン・フランソワ・タンギー(1825〜1894)は、パリのクローゼル通りで画材店を営んでいた人です。お金のない画家から代金の代わりに絵を受け取り、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホらを支えました。親しみを込めて「ペール・タンギー」と呼ばれ、日本ではタンギー爺さん、タンギー親父とも訳されます。

背景の浮世絵は何が描かれている?

ロダン美術館の絵では、右上の桜が広重の石薬師の義経桜(1855年)、帽子の上の富士山が広重の「吉原」(1855年)と「相模川」(1858年)を組み合わせたもの、左の中ほどの女性が歌川国貞の役者絵(1861年)とされています。ゴッホが実際に持っていた版画をもとにしています。

なぜ背景に浮世絵が描かれているのか?

ゴッホがパリ時代、テオと一緒に600枚を超える日本の版画を買い集め、その色や線に強く惹かれていたからです。ロダン美術館は、ゴッホがタンギーをほとんど日本の賢者のように描いていると説明しています。

ゴッホのミュージアムグッズはどこで買える?

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、ゴッホの「自画像」と「アルルの寝室」のノート(スマートブック)、オルセー美術館所蔵の「星月夜」のトートバッグを取り扱っています。