ゴッホ「アイリス」とは?療養院の庭の花と1987年の記録的落札
サン=レミの療養院に入ってすぐ、庭で描いた紫のアイリス。いまは青く見える花と、当時の史上最高額で落札された一枚

「アイリス」とは
画面いっぱいに、アイリスの花と剣のような葉が茂っています。空も地平線もなく、手前の赤土から奥のオレンジの花まで、植物だけで埋めつくされた絵です。フィンセント・ファン・ゴッホが1889年5月に描いた「アイリス」(英語 Irises)は、74.3×94.3cmの油彩画で、アメリカ・ロサンゼルスのJ・ポール・ゲッティ美術館が所蔵しています。日本では「ゴッホのあやめ」と呼ばれることもあります。
描いたのは、南仏サン=レミ=ド=プロヴァンスのサン=ポール=ド=モゾール療養院の庭です。ゴッホは1889年5月8日に自ら望んでこの療養院に入りました。ゲッティ美術館によれば、「アイリス」は入って最初の1週間のうちに、庭で実物を見ながら描き始めた絵です。
ゴッホはこの絵を習作と考えていました。それでも弟テオは同じ年の9月、パリのアンデパンダン展(独立芸術家協会展)に、「ローヌ川の星月夜」とともにこの絵を出品し、空気と生命に満ちた美しい習作だと書いています。
1987年11月11日、「アイリス」はニューヨークのサザビーズで5,390万ドルで落札され、その時点で史上もっとも高い値段がついた絵になりました。1990年からはゲッティ美術館の所蔵品です。

制作の背景、療養院の庭で
1889年5月、ゴッホは36歳でした。前年の1888年12月23日、アルルでポール・ゴーギャンとの共同生活が行き詰まる中で自分の耳を切り、アルルの病院に入院します。翌年1月に退院してまもなく描いたのが「包帯をした自画像」です。その後も発作をくり返し、1889年5月、ゴッホは自分から療養院に移ることを決めました。
療養院は、サン=レミの町の外れにある古い修道院の建物を使った施設でした。ゴッホは寝室とは別に仕事用の部屋を使うことを許され、庭で描くこともできました。5月22日のテオへの手紙には、大きな松が植えられ、手入れのされない草が伸びた荒れた庭があり、一日の多くをその庭で過ごしていると書いています。
入ってまもない5月の手紙で、ゴッホはテオに、庭から取った題材で2枚の絵を描き進めていると知らせました。紫のアイリスと、ライラックの茂みです。ライラックの絵は今、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にあります。同じ手紙では、仕事をする力はすぐに戻ってくると思うとも書いています。
ゴッホはこの療養院で約1年を過ごし、「星月夜」(1889年6月)もここで描きました。このページの画像は、同じ年の9月に療養院で描いた自画像で、今はパリのオルセー美術館が所蔵しています。

技法と色彩、浮世絵に学んだ構図
「アイリス」では、花と葉の一つひとつがくっきりした輪郭で描かれ、その内側が平らな色で塗られています。画面の端で花を大胆に切り取る構図とあわせて、ゴッホがパリ時代から熱心に集めていた日本の浮世絵の影響が指摘されています。ゲッティ美術館も、この切り取った構図とあざやかな色面は浮世絵から来ている可能性が高いと解説しています。
どの花も同じ形ではなく、曲がった輪郭やうねる線で一つずつ描き分けられています。画面の左には、紫の群れの中に一輪だけ白いアイリスが咲いています。
今の「アイリス」の花は青く見えますが、ゴッホが手紙に書いたのは紫のアイリスでした。ゲッティ美術館とゲッティ保存研究所の調査では、ゴッホは青と赤の絵具を混ぜて紫を作っていて、その赤い絵具が光で色あせたために、花が青く見えるようになったことがわかっています。2024年10月1日から2025年1月19日には、この調査を紹介する展覧会「Ultra-Violet: New Light on Van Gogh’s Irises」がゲッティ・センターで開かれ、紫のアイリスに触れたテオ宛ての手紙も並びました。




地面に近い視点、植物だけの世界
「アイリス」の前に立つと、視点の低さに気づきます。ゴッホは花を上から見下ろすのではなく、地面に近い高さから描いています。空や遠くの景色を入れず、花と葉と土だけで画面をつくりました。
ゴッホはオランダ時代から、畑や農民など土に根ざしたものを描いてきました。療養院の庭でも、ゴッホは身近な植物を題材に選んでいます。同じころに描いたライラックの茂みも、この庭の植物です。
早い時期の持ち主だった美術批評家オクターヴ・ミルボーは、ゴッホが花の繊細な性質をなんとよく理解していることか、とこの絵を称えました。画面いっぱいに花を描きながら息苦しくならないのは、一つひとつの花と葉を描き分けた細やかさがあるからです。
5,390万ドル、1987年のオークション
1987年11月11日、ニューヨークのサザビーズで「アイリス」が5,390万ドルで落札されました。それまでの最高記録は、同じ年の3月にロンドンで日本の保険会社が4,000万ドル弱で落札した、ゴッホの「ひまわり」です。「アイリス」はその記録を大きく塗り替え、当時の史上最高額の絵になりました。
落札したのは、オーストラリアの実業家アラン・ボンドでした。しかし、ボンドは代金のおよそ半分をサザビーズ自身から借りていて、その後この事実が明らかになると、値段がつり上げられたのではないかと批判が起きます。ボンドは代金を払いきれず、「アイリス」は1990年、ゲッティ美術館の手に渡りました。値段は公表されていません。
「アイリス」の記録は約2年半続き、1990年5月にゴッホの「医師ガシェの肖像」が上回りました。1980年代後半の美術市場の熱気を象徴する出来事として、今も語られています。
もう一つの「アイリス」、1890年の花瓶の絵
ゴッホが描いたアイリスの絵は、1889年の「アイリス」だけではありません。1890年5月、療養院を出る少し前に、ゴッホは春の花束を4枚描きました。アイリスとバラを2枚ずつ、色の組み合わせを変えて描いています。
アイリスの花束の1枚は、レモンイエローの背景に紫のアイリスを描いた縦長の絵で、アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵しています。このページの画像がその1枚です。もう1枚はピンクの背景に紫のアイリスを描いた横長の絵で、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。こちらはピンクの絵具が色あせて、今は背景が白っぽく見えます。
1889年の「アイリス」が庭に根を張った花を地面の高さから描いたのに対し、1890年の2枚は、花瓶に生けた花束を色の対比で見せる絵です。同じ花を、1年をおいてまったく違うかたちで描いています。

なぜ「アイリス」は今も語り継がれるのか
「アイリス」が多くの人を惹きつけるのは、療養院に入ったばかりのゴッホが、目の前の庭の花をこれほどあざやかに描いたからです。ゴッホ自身は手紙で、仕事をする力はすぐに戻ってくると書いていました。苦しい時期に描かれた絵でありながら、画面からは植物の勢いが伝わってきます。
輪郭線の強さ、平らで大胆な色、地面に近い視点。後期印象派を代表する画家ゴッホが、浮世絵から学んだものを自分の描き方にした1枚でもあります。1987年の落札で世界に名が知られましたが、絵そのものの魅力は、花を一つずつ描き分けた細やかさにあります。
赤い絵具が色あせて花が青く見えるようになったことがわかったのは、2020年の調査でした。描かれてから130年以上たっても、この絵にはまだ新しい発見があります。
「アイリス」を見るには、ゲッティ美術館とグッズ情報
1889年の「アイリス」は、アメリカ・ロサンゼルスのJ・ポール・ゲッティ美術館が所蔵し、丘の上のゲッティ・センターで見ることができます。入館は無料で、駐車場は有料です。
1890年の花瓶のアイリスは、アムステルダムのゴッホ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館が1枚ずつ所蔵しています。
ゴッホの作品をパリで見るなら、オルセー美術館です。このページで紹介した1889年9月の自画像のほか、アンデパンダン展で「アイリス」と並んだ「ローヌ川の星月夜」も所蔵しています(2026年11月14日から2027年3月28日までは東京都美術館に出品)。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵のゴッホ「ローヌ川の星月夜」をモチーフにしたメモ帳と扇子を販売しています。
よくある質問
ゴッホの「アイリス」はどこにある?
アメリカ・ロサンゼルスのJ・ポール・ゲッティ美術館が1990年から所蔵し、ゲッティ・センターで公開しています。入館は無料です。1890年に描いた花瓶のアイリスは、アムステルダムのゴッホ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。
「アイリス」はいつ、どこで描かれた?
1889年5月、南仏サン=レミ=ド=プロヴァンスのサン=ポール=ド=モゾール療養院の庭で描かれました。ゲッティ美術館によれば、ゴッホが療養院に入って最初の1週間のうちに描き始めた絵です。
「アイリス」のサイズは?
ゲッティ美術館の表記では74.3×94.3cmの油彩画です。横長の画面いっぱいにアイリスが描かれています。
「アイリス」の花はなぜ青いの?
ゴッホが描いたのはもともと紫のアイリスでした。青と赤の絵具を混ぜて紫を作っていて、その赤が光で色あせたため、今は青く見えます。ゲッティ美術館とゲッティ保存研究所の調査でわかりました。
「アイリス」にはどんな意味がある?
ゴッホ自身は、療養院の庭から取った題材の習作と考えていました。入院直後の手紙では、仕事をする力はすぐに戻ってくると書いています。苦しい時期に庭の花をあざやかに描いたことから、生きる力を感じる絵として語られることが多い作品です。
なぜ「アイリス」はそんなに高額で落札されたの?
1987年11月11日、ニューヨークのサザビーズで5,390万ドルで落札され、当時の史上最高額になりました。直前の記録は同じ年に日本の保険会社が落札した「ひまわり」です。落札者アラン・ボンドは代金のおよそ半分をサザビーズから借りていて、のちに批判を受けました。絵は1990年にゲッティ美術館が手に入れています。
ゴッホのアイリスの絵は何枚ある?
代表的なのは3枚です。1889年5月に療養院の庭で描いた「アイリス」(ゲッティ美術館)と、1890年5月に花瓶のアイリスを描いた2枚(黄色い背景のゴッホ美術館の1枚と、ピンクの背景のメトロポリタン美術館の1枚)です。
Museum Boxで買えるゴッホのグッズは?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズとして、オルセー美術館所蔵のゴッホ「ローヌ川の星月夜」をモチーフにしたメモ帳と扇子を販売しています。