ゴヤ「魔女の集会」とは?——「黒い絵」に刻まれた老画家の孤独と恐怖
自宅の壁に塗り込んだ悪夢——4メートルの闇の中で、たったひとり白い服の女が座っている

理性を離れた幻想は怪物を生む——理性と結びつくとき、芸術の母となる。
「魔女の集会」とは
「魔女の集会(アケラレ)」——正式名称「エル・グラン・カブロン(大きな山羊)」——は、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828年)が晩年に自宅の壁に直接描いた油彩壁画のひとつです。1820〜1823年頃の制作。油彩・漆喰壁(後にカンヴァスに転写)、140.5 × 435.7センチメートル。スペイン・マドリードのプラド美術館第67室に常設展示されています。
ゴヤが「黒い絵(ピントゥラス・ネグラス)」と呼ばれる14点の壁画を残した邸宅「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」の下の間(サラ・バハ)に描かれた作品で、同室には「我が子を食らうサトゥルヌス」も描かれていました。横幅4メートルを超えるこの巨大な壁画には、漆黒の山羊(悪魔)が月夜に群れる魔女たちを率いる場面が圧倒的なスケールで描かれています。
画面の圧倒的な特徴は、その暗さです。黒、焦げ茶、暗いオーカーが支配する画面に、魔女たちの顔だけが浮かびあがります。中央には巨大な黒い山羊のシルエットが三日月を背に立ち、周囲を埋め尽くす魔女たちは恍惚と恐怖の混じった表情で山羊を見上げています。そして画面の最左端に、ひとり白い服をまとった女性がぽつんと座っています。
「魔女の集会」は、ゴヤが誰にも見せるつもりなく自邸の壁に描いた完全な私的作品です。ゴヤの死から約50年後の1874年に壁からカンヴァスへの転写が行われ、1881年にプラド美術館に寄贈されて初めて公開されました。今日では西洋美術史における最も恐ろしく、最も謎深い作品のひとつとして知られています。

制作の背景——「聾者の家」に塗り込まれた悪夢
1819年末から1820年初頭にかけて、73歳のゴヤは重篤な疾患に倒れ、生死の境をさまよいました。友人の医師エウヘニオ・ガルシア・アリエータの献身的な看護によって奇跡的に回復したゴヤは、その経験を記念して「ドクター・アリエータと自画像」(1820年、ミネアポリス美術館所蔵)を描き、アリエータへの感謝の証として残しました。病から蘇ったゴヤはその直後、マドリード郊外のマンサナーレス川沿いに構えた別荘「聾者の家」の壁面を黒い絵で覆い始めます。
「聾者の家」という奇妙な名前は、ゴヤ自身のことを指していました。1792年に患った病で完全に聴覚を失ったゴヤは、世間から半ば隠遁するようにこの別荘に移り住んでいました。邸宅の二つの部屋——上の間(サラ・アルタ)と下の間(サラ・バハ)——の壁全面に、ゴヤは合計14点の油彩を直接塗り込みました。暴力、恐怖、老い、死——それぞれが暗く不可解なモチーフを持つこれらの絵は、後に「黒い絵」として一括して呼ばれることになります。
この時代のスペインは政治的混乱の極みにありました。ゴヤが「1808年5月3日」で記録したナポレオン戦争の傷跡が癒えないまま、フェルナンド7世が1823年に再び絶対王政を復活させ、自由主義者への弾圧が始まりました。聴覚を失い、高齢で、自由主義者とも見なされていたゴヤは、孤立の中で壁に向かい続けました。1824年、ゴヤはスペインを離れてフランスのボルドーへ向かい、1828年に異郷で82歳の生涯を閉じます。「黒い絵」を誰にも説明することなく去ったゴヤが、壁に何を封じ込めようとしていたのか——それは今も問い続けられています。

技法と構図——4メートルの闇が語るもの
「魔女の集会」の最大の技法的特徴は、4メートルを超える横長のフォーマットです。転写前の原寸はさらに広く、1874年の転写時に右端から約140センチメートルが切断されたと推定されています。現在の画面でも充分に圧倒的ですが、本来の「魔女の集会」はさらに広大な群衆の場面だったと考えられています。
筆触は驚くほど大胆で即興的です。魔女たちの顔はフラットな絵具の塊で粗く描かれており、近くで見ると抽象的な絵具の集積にしか見えません。しかし数メートル離れると、歪んだ顔の表情が浮かびあがり、恐怖と恍惚の混じった群衆の熱狂が伝わってきます。ゴヤはこの技法を「黒い絵」全体で使っており、印象派の50年前に「見る距離によって絵が変容する」表現を完成させていました。
色彩は意図的に単純化されています。黒、焦げ茶、灰色が支配的で、わずかなオーカーとクリーム色が点在するだけです。この単色に近いパレットは、ゴヤが宮廷画家として活躍した時代の豊かな色彩とは正反対です。光は左方向から差し込み、山羊の輪郭を鋭くシルエット化しています。三日月が輝く夜空だけが唯一の明るい要素で、それが逆に周囲の闇を際立たせています。
山羊(悪魔)の造形は、スペインの魔女裁判における悪魔の伝統的な描き方を踏まえながら、ゴヤ独自の解釈を加えています。単なる悪魔の絵ではなく、群衆が一体となって恐怖と期待の入り混じった視線を向ける対象として描かれており、「支配する者と支配される者」という権力の本質的な構造が暗示されています。これが19世紀の異端審問制度への批判なのか、人間の集合心理への洞察なのかは、美術史家の間で今も議論が続いています。




たったひとり白い服の女性——謎の人物は誰か
「魔女の集会」で最も議論を呼ぶのは、画面最左端に座るひとりの女性です。周囲の魔女たちが黒い衣をまとって山羊の周りに密集しているのに対し、彼女だけが白いショールをまとい、群衆からわずかに離れて座っています。その距離感と白さが、彼女を画面の中で異質な存在として際立たせています。
最も有力な説は、彼女がゴヤの晩年の伴侶だったレオカディア・ゾリジャ・ワイス(Leocadia Zorrilla Weiss)であるというものです。レオカディアはゴヤが「聾者の家」に移り住んだ頃から同居しており、ゴヤの最晩年の私生活を支えた女性でした。もしこの解釈が正しければ、ゴヤは自分の伴侶を魔女の集会の「外縁」に描いたことになります——完全な仲間でも完全な部外者でもなく、境界線上に立つ存在として。
別の解釈では、この女性はスペイン異端審問によって無実のまま「魔女」として裁かれた女性を象徴するという読みがあります。1797〜98年頃に描かれた初期版「魔女の集会」にもゴヤは同様のテーマを込めており、異端審問制度の理不尽さへの批判がゴヤの一貫したモチーフでした。白い服は無実の象徴であり、群衆から引き離された座り方は「罪を着せられた孤独」を示すという解釈です。
また、「この女性は観客の代理である」という読み方もあります。暗闇の中で狂乱する群衆を眺めるとき、私たちは本当に「外にいる」のか「内にいる」のか——ゴヤはそれを問いかけているというのです。いずれの解釈も確証を持って断定することはできず、250年が経った今も、白い服の女性は静かに座り続けています。
壁から剥がされた悪夢——「黒い絵」はいかにして救われたか
ゴヤが1828年にボルドーで死去した後、「聾者の家」はしばらく放置されていました。壁に直接描かれた「黒い絵」は、持ち主が変わるたびに消失の危機にさらされていました。1873年、フランスの銀行家エミール・デルランジェがこの邸宅を購入します。デルランジェはゴヤの壁画の価値を認識し、翌1874年に美術修復家サルバドール・マルティネス・クベルスに依頼して、全14点の壁画をカンヴァスへ転写する大工事を行いました。
この転写作業は非常に困難を伴いました。漆喰壁から絵具層を剥がしてカンヴァスに貼り付けるという当時の技術では、完全な保存は不可能でした。「魔女の集会」は転写の際に右端から約140センチメートルが切断され、本来の構図が失われました。現在プラド美術館で見ることができる「魔女の集会」は、ゴヤが描いたものより大幅に短くなっています。当時の写真家フアン・ラウレントが転写前に撮影した記録写真が残っており、それと比較すると現在の絵がかなり縮小されていることがわかります。
1881年、デルランジェはスペイン政府に「黒い絵」全作品を寄贈しました。当初はプラドの仮設展示室に置かれていたこれらの絵は、その後常設展示に格上げされ、現在は第67室に「黒い絵」として一括展示されています。かつてゴヤが誰にも見せるつもりなく自邸の壁に描いた私的な作品が、今日では世界屈指の名画として年間数百万人の来場者を集めています。

1797年版「魔女の集会」との比較——30年で何が変わったか
ゴヤが「魔女の集会」を描いたのは「黒い絵」の時期(1820〜23年)だけではありませんでした。それより約25年前の1797〜98年頃、ゴヤはオスーナ公爵家の別荘(ラ・アラメーダ・デ・オスーナ邸)のために小さな「魔女の集会」(43 × 30センチメートル)を制作しています。現在マドリードのラサロ・ガルディアノ財団に所蔵されているこの初期版は、「黒い絵」版とは劇的に異なるスタイルを持っています。
初期版の「魔女の集会」は明るい色調で描かれており、山羊の周囲に集まる魔女たちはどこかカリカチュア的で、恐ろしいというより不思議なユーモアを感じさせます。空飛ぶ悪魔、幼い生贄、満月と山羊という同じモチーフを扱いながら、全体の雰囲気は後の「黒い絵」版とまるで異なります。この頃のゴヤはまだ宮廷画家として活躍中であり、魔女という題材は貴族向けのおしゃれな「民俗的幻想」として扱われていました。
対して1820〜23年の「黒い絵」版は、明らかに内側から湧き出る必然性を持っています。色調の暗さ、群衆の歪み、白い女性の孤立——どれも社会向けのパフォーマンスではなく、ゴヤ自身の内的世界を壁に直接叩きつけたものです。「裸のマハ」で外向きの優雅さを見せていたゴヤが、晩年には完全に内向きの闇を描き続けました。
二枚の「魔女の集会」を比較することで、ゴヤという画家の25年にわたる変容が凝縮して見えます。若い頃に外に向けて演じていた「魔女という幻想」が、老齢になって誰にも見せない壁の上で「本当の恐怖」として結実したのです。ロマン主義絵画の先駆けとも評されるゴヤの芸術は、この二枚の対比に最もよく表れているといえるでしょう。

なぜ「魔女の集会」は今も語り継がれるのか
「魔女の集会」が美術史上で特別な地位を占める最大の理由は、それが「見せるために描かれなかった」という事実にあります。ゴヤが自邸の壁に描いたこれらの絵は、本来なら作者の死とともに消えるはずでした。それが偶然にも保存され、転写され、プラドに寄贈されたことで、私たちは画家の内的世界を覗き見ることになりました。「最も個人的な絵」が「最も公的な美術館」で展示されるという逆説は、「黒い絵」全体に漂う不思議な緊張感の源泉となっています。
美術史的な影響という意味でも、「黒い絵」はゴヤの時代を超えています。エドヴァルド・ムンクの「叫び」、パブロ・ピカソの「ゲルニカ」、20世紀ドイツ表現主義——これらの芸術に共通する「内的な恐怖・暴力・狂気を直接キャンバスに叩きつける」という手法の原型は、ゴヤの「黒い絵」に見出すことができます。技法的にも、印象派より50年早くゴヤが完成させた「遠くから見ると形になる大胆な筆触」は、近代絵画の直接の先駆けとなりました。
「魔女の集会」というタイトル自体も示唆的です。ゴヤは中世以来の「魔女」というイメージを使いながら、真に描きたかったのは魔女ではなく「恐怖によって支配される群衆」だったと多くの研究者が指摘します。異端審問、ナポレオン戦争、フェルナンド7世の絶対王政——ゴヤが生涯かけて目撃した暴力と支配の本質が、巨大な黒い山羊の前にひれ伏す群衆として結晶しています。そしてひとり白い服の女性として座る孤独な個人が、その対極に置かれています。
「魔女の集会」を見るには——プラド美術館とグッズ情報
プラド美術館第67室——「黒い絵」専用の展示室に、「魔女の集会」は「我が子を食らうサトゥルヌス」「運命の女神(パルカス)」などとともに展示されています。この部屋はゴヤの晩年の内的世界に完全に没入できる特別な空間で、プラド美術館の中でも訪問者が最も長くとどまる展示室のひとつです。隣接するゴヤの宮廷肖像画の展示室(第32室・第36室)と合わせて見ると、ゴヤの画業全体を体感できます。
プラド美術館(Museo Nacional del Prado)はマドリード市内のパセオ・デル・プラドに面した国立美術館で、1819年の開館以来、ゴヤ・ベラスケス・エル・グレコなどスペイン絵画の至宝を収蔵しています。開館時間は月〜土曜10:00〜20:00、日曜・祝日は10:00〜19:00。一般入館料は€15です。「黒い絵」の展示室はほとんどの場合、入館後すぐに見つかります。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のゴヤと同時代の名画グッズをお取り扱いしています。ゴヤに影響を受けたフランス・ロマン主義の旗手ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」をモチーフにしたスウェットシャツ・ノートなど、ヨーロッパ名画のミュージアムグッズをぜひご覧ください。
よくある質問
「魔女の集会」はどこにある?
スペイン・マドリードのプラド美術館第67室「黒い絵」展示室に所蔵・展示されています。「我が子を食らうサトゥルヌス」など他の黒い絵と同じ部屋で見ることができます。
「魔女の集会」はいつ描かれた?
1820〜1823年頃に制作されました。ゴヤが晩年に自邸「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」の壁に直接描いた「黒い絵」シリーズの一点です。
「魔女の集会」のサイズは?
140.5 × 435.7センチメートルの横長大作です。ただし転写時に右端から約140センチメートルが切断されており、ゴヤが描いた本来の姿よりも小さくなっています。
「黒い絵(ピントゥラス・ネグラス)」とは何ですか?
1820〜1823年頃にゴヤが自邸「聾者の家」の壁に直接描いた14点の壁画の総称です。生前は公開されず、ゴヤの死後50年以上が経った1881年にプラド美術館に寄贈されて初めて公開されました。
白い服の女性は誰ですか?
正式には不明です。ゴヤの晩年の伴侶レオカディア・ゾリジャ・ワイスを描いたという説、異端審問の無実の犠牲者を象徴するという説など複数の解釈がありますが、確証は得られていません。
「魔女の集会」のグッズはどこで買える?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のゴヤと同時代の名画グッズをお取り扱いしています。ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」などをモチーフにしたミュージアムグッズをぜひご覧ください。