ドガ「アブサン」とは?パリのカフェが映す孤独と近代の光と影

1876年、カフェの隅——二人並んで座りながら、なぜ彼らはこれほど孤独なのか

エドガー・ドガ「アブサン」(1875-1876年)パリ・オルセー美術館所蔵
芸術とは、見えるものを描くことではない。見えないものを見えるようにすることだ。

「アブサン」とは

白く霞んだカフェの片隅——女優エレン・アンドレがうつろな目でテーブルに視線を落とし、傍らでマルスラン・デブタンが煙草をくゆらせる。二人は隣り合わせに座りながら、言葉を交わす気配すらない。エドガー・ドガが1875〜1876年に描いた「アブサン(L'Absinthe)」は、縦92cm・横68.5cmの油彩画で、19世紀パリのカフェ文化に潜む孤独と疎外を鋭く描いた傑作です。

作品は現在パリ7区のオルセー美術館に所蔵されています(整理番号RF 1984)。画面左手のテーブルには女性の前にアブサン(緑がかった薄い酒)のグラスと水差しが置かれ、右にはデブタンの暗い飲み物が見えます。タイトルの「アブサン」は当時フランスで大流行していたリキュールで、アルコール度数68〜72%に達する強烈な酒でした。

ドガは1876年の第2回印象派展にこの作品を「カフェにて(Dans un café)」というより中立的なタイトルで出品しました。「アブサン」という呼称が定着したのは後年のことです。絵のモデルはコメディ=フランセーズの女優エレン・アンドレ(1857〜1933年)と版画家・画家のマルスラン・デブタン(1823〜1902年)で、どちらもドガの個人的な知人でした。二人が実際にアブサンを飲んでいたわけではなく、ドガが構図のために配置しました。

「芸術とは、見えるものを描くことではない。見えないものを見えるようにすることだ。(L'art n'est pas ce qu'on voit, mais ce qu'on fait voir aux autres.)」——ドガのこの言葉は、「アブサン」が「カフェの情景」以上のものを描いていることを示しています。

ドガ「アブサン」(1875-1876年)女性の表情とアブサングラスのディテール——オルセー美術館所蔵

制作の背景——カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテネとドガの観察眼

1875年頃、ドガはパリ9区のモンマルトル麓にあるカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテネ(現在もピガール広場に存在)を頻繁に訪れていました。このカフェは印象派の画家・作家・批評家の溜まり場で、ドガ、マネ、ゾラ、モーパッサンらが集まる知的な場所でした。「アブサン」の舞台はここだと考えられています。

ドガ42歳のこの時期、彼はバレエ・競馬・カフェコンサートなど現代パリの「見世物」を主題とした作品を精力的に制作していました。1873〜1876年の間に完成した代表作には「バレエの稽古」(1873-1876年、オルセー美術館)、「踊りの授業」(1873年、メトロポリタン美術館)があり、「アブサン」はその系列の中に位置します。

モデルのエレン・アンドレは当時20歳前後の若い女優で、ドガの作品に複数回登場しています。マルスラン・デブタンは52歳の版画家で、独特の老いた風貌が画面右側の存在感を生んでいます。二人の世代差・社会的位置の違いが、並んで座りながらも断絶した空気を生み出しています。

この作品はドガが「アブサン中毒」という社会問題を批判しているという解釈と、単純に孤独な都市生活者の心理的状態を描写しているという解釈の両方が存在します。ドガ自身はその意図について沈黙を保ちました。

エドガー・ドガ「自画像」(1854-1855年頃)オルセー美術館所蔵

技法と構図——斜めのテーブルが生む心理的な距離

「アブサン」の最大の構図的特徴は、画面手前の斜めのテーブル群です。右下から左上に向かって伸びる2つのテーブルの縁が、見る者を絵の外に突き放すような役割を果たしています。通常の絵画なら主役の人物を画面中央に据えますが、ドガはこの対角線的な構図によって人物を右上隅に追いやり、二人の孤立感を視覚的に強調しました。

この構図は写真や日本の浮世絵版画からの影響が指摘されています。ドガは写真愛好家でもあり、また葛飾北斎・歌川広重らの浮世絵を熱心に収集していました。「アブサン」の大胆なトリミングと非中心的な人物配置は、「雪中鴛鴦図」などの浮世絵の空間処理と共通する発想を持っています。

色彩は抑制されています。女性の服はくすんだベージュ、男性は暗い黒、背景の壁面は白と灰色。アブサングラスの緑がかった薄い色と、女性のドレスの微かな黄みだけが画面にわずかな暖かさをもたらしています。この意図的な色彩の抑制が「陽気なカフェの場面」ではなく「沈黙と疎外の場面」という印象を決定づけています。

筆触は全体的に素描的で、背景のカーテンやシェードはほとんどスケッチのような粗さで描かれています。しかし女性の表情と手は丁寧に仕上げられており、そのコントラストが彼女の心理状態に視線を誘導します。

ドガ「アブサン」女性とアブサングラスのディテールドガ「アブサン」二人の人物のディテールドガ「アブサン」グラスと水差しのディテールドガ「アブサン」斜めのテーブル構図のディテール

ロンドン展示の「スキャンダル」——道徳論争と傑作の評価

「アブサン」が特に注目されたのは、1893年にロンドンで開催されたグラフトン・ギャラリー展覧会でのことです。英国の批評家たちはこの作品を「アブサン中毒者のみじめな姿を描いた」として道徳的観点から激しく攻撃しました。一方で、画家ウォルター・シッカートをはじめとする芸術支持者たちはこれを「現代絵画の傑作」として擁護し、激しい論争となりました。

論争の焦点は「芸術は道徳的であるべきか」という問いでした。アブサンは当時フランスで「狂気と犯罪の原因」として規制が議論されており(実際に1915年にフランスで禁止される)、その危険なイメージを持つ酒と、虚脱した表情の女性を組み合わせた絵は英国の保守的な批評家には受け入れられなかったのです。

しかしロンドン論争は逆説的にこの作品を有名にしました。1892年にこの作品を購入したのはHenry Hill卿という英国の収集家で、その後フランス国家が1892年に16,000フランで購入しました。現在の保険評価額は数十億円規模と推定されます。

論争の中でドガは沈黙を守りました。彼は晩年まで「私の作品はその絵自体が語る」という立場を崩さなかったといわれています。「アブサン」が美術史に残った理由のひとつは、この論争によって「芸術における現実描写の自由」という議論の象徴となったからです。

なぜ「アブサン」は今も語り継がれるのか

「アブサン」が美術史に残る理由は、「都市の孤独」というテーマを絵画で初めて本格的に表現した作品のひとつだからです。産業革命後の近代都市パリでは、人口過密の中での孤立という逆説的な現象が生まれていました。「アブサン」はその現象を、カフェという「人が集まる場所」を舞台に、言葉なしに表現しました。

後世への影響は大きく、特にエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」(1942年)との比較が頻繁に指摘されます。ホッパーのカフェの孤独な夜更けの場面は、「アブサン」が提示した「人が集まりながら孤独な場所」というコンセプトの20世紀的展開と言えます。またゴッホは「アブサン」を見て「これほど人間の孤独を正確に描いた絵はない」と友人への手紙で書いています。

ドガ自身は1834年パリ生まれ。エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学び、イタリア留学を経て画壇デビューしました。83歳で没するまで(1917年)膨大な作品を残しましたが、晩年は視力が衰え、パステルや彫刻に転向しました。「アブサン」は彼の壮年期40代の代表作であり、写真的な視点・浮世絵的な構図・人間観察の鋭さが最も凝縮された一枚です。

オルセー美術館では「アブサン」の隣に「カフェコンサートにて」「カフェにて(シンガー)」など関連作品も展示されており、ドガが繰り返しカフェという空間を探求していたことがわかります。

「アブサン」を見るには——オルセー美術館とグッズ情報

「アブサン」はパリ7区のオルセー美術館5階の印象派展示室に所蔵されています。同じエリアにドガの「バレエの稽古」「踊りの授業」「踊り子たち(青衣)」など代表的なバレエ作品も並んでおり、ドガの多彩な作品世界を一度に体験できます。入館料€16、月曜休館。オルセー美術館へはRER C線「オルセー駅」または地下鉄12号線「アッセンブレ・ナシオナル駅」から徒歩約5分です。

「アブサン」の舞台となったカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテネは、現在もパリ9区ピガール広場(Place Pigalle)の近くにあります。建物外観はほぼ当時のまま残っており、ドガやマネが議論を交わした空間の雰囲気を今でも感じることができます。

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のドガグッズを販売しています。オルセー美術館所蔵の「星(踊り子)」複製画・ブロンズ彫刻「踊り」・「立ち止まった馬」など、ドガの多様な芸術世界をご自宅でお楽しみいただけます。

よくある質問

ドガ「アブサン」はどこにある?

パリ7区のオルセー美術館5階に所蔵されています。同フロアにドガの「バレエの稽古」「踊りの授業」なども展示されています。

ドガ「アブサン」はいつ描かれた?

1875〜1876年に制作され、1876年の第2回印象派展に「カフェにて(Dans un café)」というタイトルで出品されました。

「アブサン」の登場人物は誰?

画面左の女性はコメディ=フランセーズの女優エレン・アンドレ(1857〜1933年)、右の男性は版画家・画家のマルスラン・デブタン(1823〜1902年)です。どちらもドガの個人的な知人でした。

ドガ「アブサン」のサイズは?

縦92cm、横68.5cmの油彩画です。

なぜロンドンで論争になったのか?

1893年のロンドン展示で「アブサン中毒者のみじめな姿を描いた不道徳な絵」と批評家から攻撃されました。しかしこの論争が逆に作品を有名にし、現代絵画の傑作として評価が確立しました。

ドガのグッズはどこで買える?

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のドガグッズを販売しています。「星(踊り子)」複製画・ブロンズ彫刻などをご覧ください。