クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」とは?略奪と返還の物語を解説

1907年——金箔を纏った「ウィーンのモナ・リザ」と略奪・返還の百年

グスタフ・クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」(1907年)ノイエ・ガレリー(ニューヨーク)所蔵
黄金は霊的な知識、人間の精神の輝きを象徴する。

アデーレの肖像I——黄金に包まれた正方形の傑作

金箔と銀箔を幾重にも重ねた縦横138×138cmの正方形のキャンバス——グスタフ・クリムトが1907年に完成させた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」は、絵画という概念を超えた、装飾芸術と肖像画の究極の融合体です。

現在はニューヨーク5番街のノイエ・ガレリーに所蔵され、「ウィーンのモナ・リザ」「黄金のアデーレ」と呼ばれるこの作品は、単なる肖像画ではありません。その背後には、ナチスによる略奪と半世紀以上にわたる返還闘争という、20世紀ヨーロッパの暗い歴史が刻み込まれています。

油彩と金箔・銀箔を組み合わせた技法で描かれた正方形のカンヴァスは、制作に3年以上を要したとされます。モデルのアデーレ・ブロッホ=バウアー(1881〜1925年)はウィーンの富裕なユダヤ人銀行家フェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻であり、クリムトの重要なパトロンでもありました。

2006年にオーストリアから返還されたのち、ニューヨークのコスメティクス実業家ロナルド・ローダーがノイエ・ガレリーのためにこの作品を1億3,500万ドルで購入。当時の美術品取引における史上最高額でした。今日もその姿は、見る者に絵画の持ちうる歴史の重さを静かに伝えています。

クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」全体図(1907年)

制作背景——ウィーン世紀末とクリムト「黄金様式」の頂点

1900年代初頭のウィーンは、ヨーロッパ文化の中心地のひとつでした。フロイトが精神分析を発表し、マーラーが交響曲を指揮し、クリムトが「ウィーン分離派」を率いていた時代です。分離派は、権威主義的なアカデミズム美術に反旗を翻し、「すべての芸術に平等を、平等にすべての芸術を」をスローガンに掲げた前衛グループでした。

クリムトが「黄金様式」と呼ばれる時期を迎えたのは、1903年にイタリア・ラヴェンナを訪問したことがきっかけでした。ラヴェンナのビザンツ式金モザイクに圧倒されたクリムトは、金箔を絵画に取り込む独自の技法を開発します。「哲学」「医学」「法学」(ウィーン大学天井画)への批判に傷ついていたクリムトが、新たな表現言語として選んだのが「黄金」でした。

アデーレとの制作は1904年頃に始まり、1907年に完成します。この3年間にクリムトが制作した下絵(スタディ)は100点以上に及び、現在もアルベルティーナ美術館などに所蔵されています。繰り返される試行錯誤の痕跡は、クリムトがこの作品にいかに真剣に向き合ったかを示しています。

アデーレは同時代のウィーンで「最も絵になる女性」と評され、知的で社会的にも活発な人物でした。彼女のサロンにはクリムトのほかシュニッツラーやホフマンスタールも集い、クリムトの芸術哲学に深く共鳴していたといわれています。

技法——金箔モザイクと肖像の融合

「アデーレの肖像I」を間近で見ると、その表面が絵具の層だけでなく実際の金箔・銀箔で覆われていることに気づきます。ビザンツ建築の装飾に用いられるモザイク技法をキャンバスに応用し、幾何学的なパターンや植物文様が人物と背景を溶け合わせるように展開しています。

顔と手——肌の部分——は写実的な油彩で描かれ、衣服と背景は金箔と抽象的なモチーフで埋め尽くされています。この対比が、アデーレの顔を画面から浮かび上がらせる効果を生み出しています。着衣の模様には目・渦巻き・三角形などのシンボルが繰り返し現れ、エジプト美術やアール・ヌーヴォーの影響が見て取れます。

衣装のモザイク模様は、単なる装飾ではなく記号の体系でもあります。クリムトは当時の神秘主義や東洋哲学にも関心を持っており、繰り返しパターンは「永遠」「再生」「生命の循環」を暗示すると解釈されることがあります。

手のポーズも注目すべき点です。アデーレの指先は微妙に折れ曲がり、完全には開かれていません。美しく様式化された手の表現は、クリムトが人体の中でも「顔」と「手」だけを現実的に描くという選択を最も意識的に実行した部分です。

クリムト「アデーレ」顔のディテール——写実的な肌と金箔の対比クリムト「アデーレ」金箔の装飾模様のディテールクリムト「アデーレ」衣装のモザイク模様のディテールクリムト「アデーレ」手のポーズのディテール

略奪と返還の物語——ナチスから2006年まで

1938年3月、ナチス・ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)するとともに、ユダヤ人所有者からの財産収奪が始まりました。フェルディナント・ブロッホ=バウアーは国外脱出を余儀なくされ、「アデーレの肖像I」を含む大量の美術品がナチスによって接収されました。

戦後、これらの作品はオーストリア美術館(ベルヴェデーレ宮殿美術館)に移管され、60年以上にわたって「オーストリアの国宝」として展示され続けました。フェルディナントの姪にあたるマリア・アルトマン(カリフォルニア在住)は、叔父の遺言状に基づき、1998年頃からオーストリア政府に返還を求める交渉を始めます。

しかしオーストリア政府は返還を拒否。マリアはアメリカで訴訟を提起し、2004年にアメリカ連邦最高裁判所が裁判管轄権を認めます。翌2005年、オーストリアの仲裁委員会は最終的にクリムトの絵画5点(「アデーレの肖像I」「アデーレの肖像II」他)のマリアへの返還を裁定しました。

2006年、マリア・アルトマンはこの作品を含む5点を受け取り、「アデーレの肖像I」はロナルド・ローダーが設立したノイエ・ガレリーに1億3,500万ドルで売却されました。マリアとオーストリア政府の闘争は2015年に映画「黄金のアデーレ——名画の帰還」(ライアン・レイノルズ主演)として製作・公開され、この物語は世界に広く知られるようになりました。

後世への影響——クリムトとアール・ヌーヴォーの遺産

クリムトの黄金様式は、現代のデザイン・ファッション・装飾芸術において今もなお参照され続けています。「アデーレの肖像I」の金箔パターンはテキスタイル・壁紙・ジュエリーのデザインに影響を与え、クリムト特有の「肌と装飾の対比」は現代のグラフィックデザインにも頻繁に引用されます。

美術史的には、クリムトはアール・ヌーヴォーと表現主義をつなぐ橋渡し的存在として位置づけられています。彼のウィーン分離派での活動は、エゴン・シーレやオスカー・ココシュカら次世代のオーストリア表現主義を育てる土壌となりました。

この作品の返還をめぐる物語は、第二次世界大戦中に略奪された美術品の返還問題——「プロヴェナンス・リサーチ」——に社会的な関心を集める契機となりました。マリア・アルトマンの闘争は、世界中の美術館や収集家が保有する美術品の来歴を問い直すきっかけとなり、略奪被害を受けた家族たちの後押しとなっています。

Museum Boxでは、クリムトの黄金様式にインスパイアされたジュエリー・ポーチ・マグカップなどを取り扱っています。すべてフランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズです。

ノイエ・ガレリー(ニューヨーク)で実物を見る

「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」の実物はニューヨーク5番街86丁目のノイエ・ガレリーに所蔵されており、常設展示で鑑賞できます。ノイエ・ガレリーはドイツ語圏(ドイツ・オーストリア)の近代美術・デザインを専門とする美術館で、2001年に開館しました。クリムトのほかエゴン・シーレ作品も充実しており、ウィーン世紀末美術の濃厚な体験ができます。

入館料は大人25ドル(12歳以下入館不可)。同建物内の「カフェ・ザバルスキー」はウィーン風カフェとして知られ、美術鑑賞後のひと休みに人気があります。

ノイエ・ガレリーを訪れる際は、事前にオンラインでチケットを購入することをお勧めします。「アデーレの肖像I」が展示されている2階のメインギャラリーは比較的小さく、週末は混雑します。実物の金箔の輝きは写真では伝わらない迫力があり、ぜひ間近で確かめてください。

よくある質問

クリムト「アデーレの肖像I」はどこにある?

ニューヨーク5番街のノイエ・ガレリーに常設展示されています。2006年にオーストリアから返還後、1億3,500万ドルで同館が購入しました。

なぜ「黄金のアデーレ」と呼ばれる?

金箔・銀箔を多用したクリムトの「黄金様式」で描かれており、作品全体が金色の輝きに包まれているためです。「ウィーンのモナ・リザ」とも呼ばれます。

ナチスに略奪されたのはなぜ?

1938年のアンシュルス(ナチスによるオーストリア併合)後、ユダヤ人であった所有者フェルディナント・ブロッホ=バウアーが国外脱出を強いられ、美術品が接収されました。

マリア・アルトマンとは誰か?

フェルディナントの姪でカリフォルニア在住の女性。2004〜2006年にわたる法廷闘争でオーストリア政府から5点の絵画の返還を勝ち取りました。映画「黄金のアデーレ」(2015年)でその闘争が描かれています。

「アデーレの肖像I」の価格は?

2006年にロナルド・ローダーがノイエ・ガレリーのために1億3,500万ドルで購入。当時の美術品取引における史上最高額でした。