フェルメール「絵画芸術」とは?——画家が生涯手放さなかった傑作とナチスが奪った絵の数奇な運命
1666〜68年——フェルメールが唯一売らなかった絵、ウィーン美術史美術館が誇る最高傑作

絵画とは、歴史の女神が栄光のラッパで呼び覚ます——過去を現在に蘇らせる唯一の術。
「絵画芸術」とは——フェルメールが生涯手放さなかった一枚
後ろ姿の画家が、歴史の女神クリオを描こうとしています。窓から差し込む光が白いキャンバスを照らし、クリオが身にまとう青いドレスが静謐な室内に輝きます。背後の壁には巨大なネーデルラントの地図が広がり、天井からは真鍮のシャンデリアが金色の光を放ちます——これがヨハネス・フェルメールの「絵画芸術」(De Schilderkunst)が見る者に与える第一印象です。
「絵画芸術」は1666〜68年頃に制作され、縦130cm×横110cmの油彩画です。フェルメールが手がけた室内情景の中で最大の作品であり、現在はオーストリア・ウィーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)に所蔵されています。単なる画家のアトリエを描いた作品ではなく、絵画という行為そのもの寓意——つまり「絵画とは何か」という問いへの答え——として美術史家たちは位置づけています。
この絵がフェルメールの最高傑作と言われる理由は、技法の卓越さだけではありません。フェルメールは自分の手がけた作品のうちこれだけは決して売らず、生涯アトリエに手元に置き続けました。42歳で世を去るまでの間、妻と11人の子供を抱えながら多額の負債を抱えていたにもかかわらず、この一枚だけは手放しませんでした。それほど特別な意味を持つ作品として、フェルメール自身が認識していたのです。

制作の背景——デルフトのアトリエで生まれた「絵画の宣言」
「絵画芸術」が描かれた1666〜68年頃は、フェルメールの円熟期にあたります。フェルメール「窓辺で手紙を読む女」(1657〜59年頃)、フェルメール「牛乳を注ぐ女」(1658〜60年頃)など、彼の代表作の多くはこの時期前後に生まれています。「絵画芸術」はそれらよりやや大きく、より複雑な寓意的プログラムを持つ野心的な一枚です。
フェルメール(1632〜1675年)はオランダのデルフトに生まれ、生涯ほとんどその町を離れませんでした。画商と絵師を兼業しながら制作を続けましたが、残した作品はわずか36点ほどです。同じ時期には「地理学者」(1668年)と「天文学者」(1668年)という対作品も制作しており、知識と探求という同時代の精神を複数の視点から探っていたことがわかります。
「絵画芸術」が描かれた時期のデルフトは、英蘭戦争と疫病の影響で経済的に不安定でした。フェルメールはしばしば絵画制作よりも画商としての収入に依存していたとされており、彼が財政的に厳しい状況にありながらこの大作を手元に置いていたという事実は、この作品が単なる「売り物」ではなかったことを強く示しています。フェルメールにとってこの絵は、自分が絵画によって何を達成しようとしているかを示す「宣言」だったのかもしれません。

技法と象徴——4つの寓意を読み解く
「絵画芸術」の最大の特徴は、画面の隅々まで張り巡らされた象徴的意味です。中央の女性はクリオ(歴史の女神・ミューズ)であり、月桂樹の冠(名誉)、ラッパ(名声)、ソロチョウの羽根(永遠性)、そして歴史家トゥキュディデスの大著を手にしています。歴史の女神が「絵画の女神」として呼び込まれているのは、絵画こそが歴史を後世に伝える術であるというフェルメールのメッセージです。
画面奥の大型地図には「NOVA XVII PROVINCIARUM」(ネーデルラント17州の地図)という碑文が刻まれています。これは17世紀半ばには南北に分裂していたオランダが、かつて統一されていた時代の地図です。つまりこの地図は「失われたオランダの栄光」への郷愁を象徴し、絵画(クリオ)がその栄光を「歴史」として記録するという構造になっています。
真鍮のシャンデリアには、ハプスブルク家の紋章である双頭の鷲が刻まれています。プロテスタント系オランダの室内になぜカトリック的シンボルが?——美術史家たちはこれもフェルメールによる意図的な政治的寓意と読んでいます。床の白黒市松模様は透視図法の精度を示す「技法の誇示」であり、左窓から差し込む光の描写はフェルメール特有の詩的リアリズムの頂点に達しています。130×110cmというフェルメール最大の室内画に、これだけ多くの層が重なっているのです。




フェルメールが「売らなかった」絵——妻カタリーナの命懸けの守護
フェルメールは1675年12月、わずか43歳で急死しました。11人の子供と多額の負債を残した突然の死でした。負債の筆頭はパン屋のヘンドリック・ファン・ビューテンへの617ギルダーという大きな借金で、遺産管理人には友人のアントニ・ファン・レーウェンフック(「微生物学の父」として知られる科学者)が指名されました。
妻のカタリーナ・ボルネスは、夫の死後わずか1か月後に動きました。彼女はこの「絵画芸術」を含む2点の絵画を、母マリア・タンスのもとへ移転させたのです。負債を抱えた遺産から債権者が差し押さえる前に、最も価値ある資産を守ろうとした行動でした。フェルメール作品の中でもこの一枚を選んで守ったという事実は、カタリーナ自身もこれが夫の最高傑作であると認識していたことを示しています。
「絵画芸術」がその後どのように手を渡ったかは記録が断片的ですが、18世紀にはチェルニン伯爵家(ボヘミアの貴族)のウィーンのコレクションに加わり、代々受け継がれました。フェルメール作品の中でも数少ない「オークションに出なかった」作品のひとつであり、長くプライベートコレクションにあったため、フェルメールの再評価が始まった19世紀にも広く知られていなかったことがあります。

ヒトラーが欲しがった絵——塩坑から帰還した数奇な運命
1940年、ナチス・ドイツがオーストリアを支配下に置いていた時代、ヘルマン・ゲーリングがウィーンのチェルニン宮殿でこの絵を「発見」しました。ヒトラーはこの作品をオーストリアのリンツに建設予定だった「総統美術館(フューラーミュージアム)」のための最重要コレクションに加えるべく、チェルニン伯爵から165万ライヒスマルクで購入しました。当時の最高クラスの売却額であり、この取引が任意のものだったか強制的だったかは戦後も議論が続きました。
「絵画芸術」はその後、ナチスが美術品の隠匿に使用したオーストリア・ザルツカンマーグートのアルト・アウスゼー塩坑に移されました。1945年の終戦直前、ヒトラーは「敵の手に渡るくらいなら破壊せよ」という命令を出しましたが、ナチス親衛隊内部の美術品保護論者たちがこれを阻止しました。連合軍のモニュメンツ・メン(文化財保護部隊)が同年発見し、回収されています。
戦後、「絵画芸術」はオーストリア政府の管理下に入り、1946年に美術史美術館に寄託されました。チェルニン家は返還を求めましたが、オーストリア政府は「この取引には強制的要素があった」として応じず、1958年にオーストリア共和国が正式に購入して以来、美術史美術館の所蔵品として公開されています。フェルメール作品の中でも最も波乱の来歴を持つ一枚です。

フェルメールの光の世界——「絵画芸術」とその兄弟作品たち
「絵画芸術」は、フェルメールが探求し続けた「左窓からの光」と「静謐な室内情景」の集大成です。同じ時期に制作されたフェルメール「地理学者」(1668年、シュテーデル美術館)とフェルメール「デルフトの眺望」(1660〜61年頃、マウリッツハイス美術館)は、「絵画芸術」と並んでフェルメールの絶頂期を示す3点として挙げられます。
フェルメール「牛乳を注ぐ女」(1658〜60年頃、アムステルダム国立美術館)は、同じ「左窓光」と市井の女性を主題としながら、「絵画芸術」とは対照的に複雑な寓意を持たない純粋な日常の美しさを描いています。「牛乳を注ぐ」という単純な動作に完全に集中した女性の姿は、フェルメールが「絵画芸術」で問いかけた「絵画とは何か」の答えのひとつかもしれません——日常の瞬間を永遠に変えること、それが絵画の力だということでしょう。
フェルメール「窓辺で手紙を読む女」(1657〜59年頃、ドレスデン国立絵画館)は、同じ左窓光と室内情景の様式でありながら、近年の修復調査で隠れた天使の絵の存在が明らかになり、元々は「絵画芸術」に近い寓意的プログラムを持っていた可能性が示されています。フェルメールの作品には、表の情景の奥に隠された意味の層が存在することが多く、「絵画芸術」はその象徴的複雑さが最も露わな一枚です。

なぜ「絵画芸術」はフェルメールの最高傑作と呼ばれるのか
美術史家たちがこの作品を「フェルメールの最高傑作」と呼ぶのは、技法・主題・来歴の三つが稀有な形で重なっているからです。技法面では、フェルメールが生涯追求した光の表現と市松床の透視図法が本作で最も高い完成度を示しています。主題面では、絵画という行為の意味を哲学的に問う寓意画として、同時代の「エンブレム文学」(寓意図像学)の最高峰に位置します。
来歴面では、この一枚が「フェルメール自身が売らなかった」という事実が特別な重みを加えます。画家が自分の最高傑作をどの作品と見なしていたか——通常は推測に頼るしかない問いに対して、「絵画芸術」は行動という形でフェルメール自身が答えを残しています。43年の短い生涯で生み出した約36点の中から、彼が最後まで手元に置いた一枚です。
市場価値については、「絵画芸術」はオーストリア政府の所有となって以来、実質的に市場に出ることはありません。フェルメールの現存作品はすべて美術館か国家・大規模財団の所蔵となっており、一般市場での価格がつく状況はほぼあり得ません。美術史家の試算では、もしこの作品が競売に出れば数百億円規模になるとされており、20世紀末に競売にかけられた「ダヴィンチ「サルバトール・ムンディ」(510億円)を超える可能性すら指摘されています。
「絵画芸術」を見るには——ウィーン美術史美術館と鑑賞情報
「絵画芸術」はオーストリア・ウィーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)に所蔵されています。1891年開館の壮麗な宮殿建築で、マリア・テレジア広場に面しており、向かいには自然史美術館が建ちます。ルーベンス・ラファエロ・ヴェラスケスなどの名画を擁するヨーロッパ屈指の美術館で、フェルメール作品はオランダ・フランドル絵画の常設室に展示されています。
入館料は大人22ユーロ(2024年現在)で、ウィーン中央駅からUバーン(地下鉄)U2線「MuseumsQuartier」駅または「Volkstheater」駅から徒歩数分でアクセスできます。「絵画芸術」はその大きさ(130×110cm)もあって存在感があり、実物を前にすると画面奥の地図の細部や床の市松模様の精緻さに圧倒されます。写真では伝わらない「室内の空気感」を体感できる一枚です。
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズを展開しています。フェルメールゆかりの17世紀オランダ絵画の世界を日常に取り込めるポストカード・ノート・文房具など、知的な贈り物にも最適なラインナップをご用意しています。
よくある質問
フェルメール「絵画芸術」はどこにある?
オーストリア・ウィーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)に所蔵されています。オランダ・フランドル絵画の常設展示室で常時公開されており、入館料は大人22ユーロ(2024年現在)です。ウィーン中央駅からUバーンで20分ほどでアクセスできます。
「絵画芸術」はいつ描かれた?
1666〜68年頃に制作されたと考えられています。フェルメールが34〜36歳頃の円熟期の作品で、「地理学者」「天文学者」とほぼ同時期に生まれた傑作です。
「絵画芸術」のサイズは?
縦130cm×横110cmの油彩画で、フェルメールが手がけた室内情景の中で最大の作品です。実物を前にすると床の市松模様や地図の細部、クリオの衣装の繊細な描写に圧倒されます。
「絵画芸術」に描かれた女性は誰?
月桂樹の冠・ラッパ・歴史書を持つ女性は「歴史の女神クリオ(ミューズ)」の寓意像です。チェーザレ・リパの「イコノロジア」(1603年)に定義されたクリオの姿を忠実に踏まえており、絵画が歴史を後世に伝えるという主題を表しています。
ヒトラーはなぜこの絵を買ったの?
1940年、ヒトラーはオーストリア・リンツに建設予定だった「総統美術館(フューラーミュージアム)」のコレクションとして購入しました。165万ライヒスマルクでチェルニン伯爵から買い取られましたが、終戦後に連合軍が塩坑から発見・回収し、1958年にオーストリア共和国の所有として美術史美術館に収まっています。
フェルメールのグッズはどこで買える?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)のミュージアムグッズを販売しています。フェルメールゆかりの17世紀オランダ絵画の世界を感じられるポストカード・ノート・文房具など、知的な贈り物にも最適なラインナップをご用意しています。