ファン・エイク「ヘントの祭壇画」とは?盗まれ続けた西洋絵画最大の謎——1432年の油彩革命

12の板に油彩で描かれた「奇跡」は600年間、盗まれ、焼かれ、失われながらも——ベルギーの大聖堂でひっそりと輝き続けている

ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)ゲント・聖バーフ大聖堂所蔵
これほどの大画家は他に見出されない——フーベルトゥス・ファン・エイクがこれを始め、弟ヤンがこれを完成させた

「ヘントの祭壇画」とは——12の板に宿る「世界の全て」

高さ375センチ、横幅516センチ。12枚の板に分割された「ヘントの祭壇画(Het Lam Gods)」は、1432年に完成した西洋絵画史上最も重要な作品のひとつです。現在、ベルギー・ゲントの聖バーフ大聖堂(Sint-Baafskathedraal)に保存されており、オーク材の板に油彩で描かれたこの祭壇画は、特別に設置された礼拝堂で毎日公開されています。

開いた状態では、天上の神と聖母マリア、洗礼者ヨハネが横に並ぶ上段と、大地に集う人々と神秘の子羊が描かれた下段——合わせて8つのパネルが展開します。中央下段には緑の牧草地に白い子羊が立ち、その前に流れる血が杯に受けられています。四方からは天使、聖人、巡礼者、騎士、隠者たちが行列をなして集まり、天地の境界線が溶け合う神学的宇宙が描かれています。

制作は1426年頃にフーベルト・ファン・エイク(Hubert van Eyck, c.1366-1426)が着手し、兄の死後に弟ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck, c.1390-1441)が引き継いで1432年5月6日に完成させました。祭壇画の額縁には「これほどの大画家は他に見出されない——フーベルトゥス・ファン・エイクがこれを始め、弟ヤンがこれを完成させた」というラテン語の碑文が刻まれており、二人の兄弟の名が永遠に刻み込まれています。

油彩画の技法を大規模作品に初めて本格的に応用したこの作品は、絵具の透明な重なりによって宝石のような発色と無類の細密さを実現しました。600年後の今日、修復を経た「ヘントの祭壇画」はその色彩をほぼ完璧な状態で保ち、毎年数十万人の訪問者を惹きつけています。

ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)中央下段詳細——神秘の子羊の礼拝

制作の背景——市民からの依頼と二人の兄弟の謎

「ヘントの祭壇画」の制作を依頼したのは、ゲントの裕福な市民ヨドクス・フィト(Jodocus Vijd)とその妻エリサベット・ボルルート(Elisabeth Borluut)です。彼らは聖バーフ大聖堂(当時は聖ヨハネ教会)の礼拝堂に自分たちの永代祈念のための祭壇画を設置することを望み、当時最も名高い画家であったフーベルト・ファン・エイクに制作を依頼しました。

フーベルトは制作途中の1426年に没しました。弟ヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家として活躍しながら、兄が残した下絵と未完成の板を引き継ぎ、1432年5月6日に完成させました。完成日は額縁の碑文に刻まれており、「ヨドクス・フィトの依頼により、5月6日、あなたはその業績を守るために設置される」と記されています。

二人の兄弟の「分担」については現在も議論が続いています。2012年から2020年にかけて行われた大規模修復の過程でX線・赤外線調査が実施され、いくつかのパネルに異なる画風が混在していることが確認されました。大まかには「フーベルトが構想した壮大な構図をヤンが精緻に完成させた」という見方が有力ですが、どこまでがフーベルトの手によるものなのかを確定することはいまだに困難です。ヤン・ファン・エイクは弟の立場にもかかわらず、額縁の碑文でフーベルトを「これほどの大画家は他に見出されない」と讃えました。この言葉の背後に、弟の深い敬意と謙遜を見て取ることができます。

ヤン・ファン・エイク「赤いターバンの男(自画像?)」(1433年)ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵

技法と色彩——油彩革命が生み出した宝石のような光

「ヘントの祭壇画」が美術史に革命をもたらした最大の理由は、油彩技法の本格的な確立にあります。それまでのヨーロッパ絵画ではテンペラ(卵黄を媒剤とした顔料)が主流でしたが、ファン・エイク兄弟は亜麻仁油などの乾性油に顔料を溶かした「油彩」を大規模作品に応用し、透明な絵の具層を何層にも重ねる「グレーズ技法」によって、それまでの絵画には存在しなかった宝石のような発色と深みを実現しました。

神(全能の父)のパネルを例に取ると、王冠に散りばめられた宝石——サファイア、ルビー、エメラルド——のひとつひとつが、実際の宝石と見紛うほどの光沢と透明感で描かれています。聖母マリアの青いマントは、群青(ラピスラズリ)の顔料が何層にも重なって深海のような深みを持ちます。15世紀当時、ラピスラズリは金よりも高価な顔料であり、聖母マリアのマントに惜しみなく使われたことは、この祭壇画への並々ならぬ投資を示しています。

歌う天使たちのパネルでは、オルガンを奏でる天使の楽譜の細かな音符まで読み取ることができます。アダムとイブのパネルは、北方ルネサンスにおける初期の大規模裸体画のひとつで、人体の細部——毛穴、血管の浮き出た皮膚、のどぼとけ——が驚異的なリアリズムで描かれています。この「生の肌」の表現は、同時代のイタリア・ルネサンスの理想化された裸体とは根本的に異なる北方的写実主義の宣言でした。

ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)全能の神パネル——豪奢な法衣と王冠をまとった神ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)聖母マリアパネル——読書する聖母ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)歌う天使たちパネル——楽譜まで読める細密描写ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」(1432年)アダム、カインとアベルパネル——北方ルネサンス最初期の裸体画

盗まれた「正義の裁判官」——90年間埋まらない祭壇画の空白

1934年4月10日深夜、「ヘントの祭壇画」の一枚「正義の裁判官(De Rechtvaardige Rechters)」パネルが大聖堂から盗まれました。このパネルには、キリストを礼拝するために集まる騎士たちの行列が描かれており、西欧絵画史上最も重要な作品の一部を構成していました。

犯人を名乗る人物から一連の身代金要求の手紙がベルギー当局に送られましたが、交渉は決裂し、パネルは返還されませんでした。唯一の容疑者とされたアルセーヌ・ゴーデーヴ(Arsène Goedertier)は、1934年11月に心臓発作で突然死し、「パネルの在り処は私だけが知っている」という言葉を残したまま世を去りました。

それから90年以上が経った今も、「正義の裁判官」の行方は不明のままです。現在、その場所には模写画家イェフ・ファン・デル・フェーケンが1945年に制作した複製パネルがはめ込まれています。専門家でなければ本物と区別しがたい精巧な複製ですが、オリジナルの不在は「ヘントの祭壇画」に永遠の謎と傷跡を残し続けています。この盗難事件は美術界最大の未解決事件のひとつとして語り継がれており、ベルギーの国民的記憶に深く刻まれています。

「最も盗まれた芸術作品」——600年で13回の略奪

美術史家たちは「ヘントの祭壇画」を「世界で最も盗まれた芸術作品」と呼ぶことがあります。完成してから600年足らずの間に少なくとも13回の略奪・移動・分解・不正取得の試みがあり、これほど多くの危機をくぐり抜けた作品は世界でも稀です。

特に印象的な略奪のエピソードは第二次世界大戦中のものです。ナチス・ドイツはこの作品を「ゲルマン文化の至宝」として組織的に狙いを定め、1942年にフランスのポー城近郊に隠されていた祭壇画をオーストリアのアルタウゼー岩塩鉱山に移送しました。1945年5月、連合軍の文化財保護部隊「モニュメンツ・メン」がこの岩塩鉱山から「ヘントの祭壇画」をはじめとする何千点もの芸術作品を発見・回収しました——ヒトラーが「フューラー美術館」建設のために組織的に略奪した作品群の中に含まれていたのです。

その前のナポレオン時代(1794年)にも、フランス軍が祭壇画を分解してパリへ持ち去りました。ナポレオン失脚後の1815年、外交交渉を経てゲントに返還されましたが、一部パネルはブリュッセルやベルリンに売却された後に回収されるなど、複雑な歴史をたどっています。これほど多くの支配者が「所有したい」と望んだという事実そのものが、この祭壇画の圧倒的な価値を証明しています。

「アルノルフィーニ夫妻の肖像」との共鳴——ファン・エイクの二つの頂点

ヤン・ファン・エイクが「ヘントの祭壇画」完成の翌年(1434年)に描いたファン・エイク「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は、「ヘントの祭壇画」と並んでファン・エイクの最高傑作として評価されています。夫婦の背後に吊るされた凸面鏡の中に、部屋全体の光景と二人の証人が映り込んでいます——この「絵の中の絵」という入れ子構造は、宗教的絵画への奉仕から個人の世界の記録へと向かう北方絵画の転換点を示しています。

北方ルネサンスの後継者たちはファン・エイクの遺産を受け継ぎました。約1世紀後のデューラー「自画像(1500年)」は油彩による超絶技巧的な細密描写においてファン・エイクの影響を色濃く示し、ホルバイン「大使たち」(1533年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)の宝石・地球儀・楽器の描写は「ヘントの祭壇画」の法衣と宝石の描写から直接続く系譜に位置しています。ルーベンス「キリスト降架」(1612年)のダイナミックな構図も、フランドル祭壇画という形式をファン・エイクが確立したからこそ生まれた傑作です。

「ヘントの祭壇画」は北方ルネサンスの始まりであり、その後の500年のヨーロッパ絵画の基盤となりました。ファン・エイクが油彩の可能性を開いたことで、ティツィアーノ、レンブラント、フェルメールへと連なる西洋絵画の偉大な伝統が始まったのです。

なぜ「ヘントの祭壇画」は今も語り継がれるのか

「ヘントの祭壇画」が600年を経た今も人々を魅了し続ける理由は、その技術的な革新と同時に「見るたびに新しい発見がある」という尽きない豊かさにあります。縦375センチ・横516センチの巨大な画面に、数百人の人物・無数の植物・鉱物・動物が描き込まれており、研究者たちは現在も新しい細部を発見し続けています。

2012年から2020年にかけての大規模修復プロジェクト(「世紀の修復」と呼ばれました)では、過去の修復で加えられた上塗りが除去され、ファン・エイクが描いた本来の色彩が約200年ぶりに姿を現しました。特に驚きをもって迎えられたのは、神の顔の変化です——以前は端正な顔立ちと思われていた神は、修復後に「より生々しい、やや威圧的な表情」であることが判明し、ファン・エイクの神学的意図を再考させる議論が生まれました。

美術市場における価値については、「ヘントの祭壇画」は国家の財産として売買の対象外であり、競売に出ることは原理的にありません。毎年約25万〜30万人がこの作品を見るためにゲントを訪れており、「ヘントの祭壇画」はベルギーの最重要文化財として国家のアイデンティティそのものと結びついています。

「ヘントの祭壇画」を見るには——ゲントとグッズ情報

「ヘントの祭壇画」はベルギー北部のゲント(Gent / Ghent)にある聖バーフ大聖堂(Sint-Baafskathedraal)に所蔵・展示されています。大聖堂はゲント旧市街の中心、聖バーフ広場(Sint-Baafsplein)に位置しており、ゲント中央駅(Sint-Pietersstation)から徒歩約20〜25分、または路面電車でアクセスできます。

祭壇画は大聖堂内の専用礼拝堂に設置されており、鑑賞には別途入場料(4〜8ユーロ程度)が必要です。礼拝堂内は照明が整備されており、展示パネルに近づいて細部を観察できます。ゲントはブリュッセルから電車で約30分、ブルージュから約25分という好立地にあり、フランダース地方の観光拠点として最適です。運河沿いの旧市街、グラスレイ(草市の波止場)、ゲント城なども合わせてお楽しみいただけます。

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よくある質問

「ヘントの祭壇画」はどこにある?

ベルギー北部のゲント(Ghent)にある聖バーフ大聖堂(Sint-Baafskathedraal)の専用礼拝堂に常設展示されています。ゲント旧市街の聖バーフ広場に位置し、ブリュッセルから電車で約30分です。

「ヘントの祭壇画」はいつ描かれた?

1426年頃にフーベルト・ファン・エイクが着手し、1432年5月6日にヤン・ファン・エイクが完成させました。兄フーベルトが途中で亡くなったため、弟ヤンが引き継いで完成させたとされています。

「ヘントの祭壇画」のサイズは?

開いた状態で高さ375.4cm、幅516.2cmです。オーク材のパネル12枚で構成された多翼祭壇画(ポリプティコン)で、閉じた状態では高さ375.4cm、幅260cmになります。

なぜ「ヘントの祭壇画」は油彩画の革命と言われる?

それまで主流だったテンペラ技法に代わり、ファン・エイク兄弟は乾性油に溶いた顔料を透明に何層にも重ねる「グレーズ技法」を確立しました。宝石のような発色と超絶的な細密描写は油彩でしか実現できず、その後の西洋絵画の技法的基盤となりました。

「正義の裁判官」のパネルが盗まれたのは本当?

本当です。1934年4月10日深夜に聖バーフ大聖堂から盗まれ、90年以上経った現在も行方不明のままです。現在の礼拝堂で展示されている「正義の裁判官」は1945年制作の複製パネルです。

ファン・エイク「ヘントの祭壇画」関連のグッズはどこで買える?

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