関根正二「信仰の悲しみ」とは?——20歳で逝った天才が残した、大正最大の謎作

「楽しき国土」のはずだった——幻影が生んだ、大正期日本洋画の最高傑作

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)大原美術館所蔵
朝夕孤独の淋さに何物かに祀る心地になる時あった——女が三人、又五人、私の目の前に現れるのです

「信仰の悲しみ」とは——幻影が生んだ大正の傑作

暗い青灰色の空を背景に、5人の女性たちが静かに立ち並んでいます——白や赤やピンクの衣をまとった彼女たちの姿は、夢の中の映像のように揺らいでいます。関根正二が1918年(大正7年)に描いた「信仰の悲しみ」は、縦73.0センチメートル、横100.0センチメートルの油彩・キャンヴァス作品です。岡山県倉敷市の大原美術館が所蔵するこの作品は、2003年に国の重要文化財に指定されており、大正期の日本洋画を代表する傑作として広く知られています。

同年開催の第5回二科展に出品されたこの作品は、新人賞にあたる樗牛賞を受賞しました。19歳の独学画家による衝撃的なデビューは、当時の画壇に強い印象を与えました。しかし翌年の1919年6月16日、関根は結核によりわずか20歳で世を去ります——「信仰の悲しみ」は夭折した天才の代表作として、今も見る者の胸を揺さぶり続けています。

関根正二(1899〜1919年)は、福島県白河市(当時の西白河郡白河町)に生まれた洋画家です。ほぼ独学で絵を学んだ関根は、オスカー・ワイルドの著作に深く影響を受け、独自の精神世界を画布に展開しました。生涯に残した作品は多くありませんが、その少ない遺作のひとつひとつが、今も100年以上の時を超えて見る者に語りかけてきます。

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)詳細——行列する女性たちの中央部

制作の背景——独学の天才と、大正という時代

1899年、福島県白河市の屋根葺き職人の家に生まれた関根正二は、9歳のときに家族とともに上京しました。正式な美術教育はほぼ受けておらず、太平洋画会研究所に数ヶ月通った程度という、ほぼ独学の画家です。

関根の精神世界を大きく形成したのは、オスカー・ワイルドの作品との出会いでした。東京印刷株式会社で働いていた頃に手にしたワイルドの著作は、関根に耽美的・宗教的な世界観への扉を開きます。その影響は、後に描く作品の全体に深く刻まれることになります。

1915年、関根は長野への放浪中に画家・河野通勢と出会い、同年「死を思ふ日」で第2回二科展への入選を果たします。そして1918年、「信仰の悲しみ」を含む作品群で第5回二科展に入選し、樗牛賞を受賞——ようやく画壇から認められ始めたその矢先に、翌1919年6月、結核により世を去りました。享年20歳でした。「信仰の悲しみ」が描かれた1918年、関根は極度の神経衰弱と精神的な混乱の中にあり、現実と幻影が入り混じる状態で筆を走らせていました。

黒田清輝「湖畔」が象徴する明治洋画の正統から、大正期の日本洋画は個人の内面へと向かいました。関根の作品はその最前線に位置しており、西洋の技法を借りながらも、どこまでも日本人の精神の深部から湧き出たものでした。

関根正二「自画像」(1918年)

技法と色彩——赤い衣の女性と、5人の幻

「信仰の悲しみ」の画面を真っ先に引きつけるのは、画面中央やや左に配された鮮やかな赤い衣の女性です。暗い青灰色の空と緑褐色の大地を背景に、5人の女性が緩やかに並ぶ構成の中で、その赤は異彩を放っています。関根は厚塗りを抑えた柔らかな筆致で人物を描き、輪郭はゆるやかにぼかされているため、現実とも夢ともつかない浮遊感が全体を包んでいます。

左端の女性は一人で立ち、白い衣をまとって花を手にしています。中央の2人は身を寄せ合うように密着し、右側の2人はさらに淡い色調の衣をまとっています。花を手にした人物が複数いることで、画面全体に儀式的な静謐さが漂います。描かれた女性たちは腹部がわずかに丸みを帯びており、記述者によっては妊婦のように見えるとも評されますが、何よりも強いのは彼女たちが「幻」であるという感覚です。

背景の空は暗い群青と青灰色で重く塗られ、緑がかった大地と相まって、日常から切り離された場所を表しています。筆触は柔らかく溶け込む様子で、力強い厚塗りで名を成した佐伯祐三「郵便配達夫」とは対照的に、関根は絵の具を薄く重ねながら、見えない世界の形を探りました。

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)左端の女性のディテール関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)中央の赤い衣の女性のディテール関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)右側の人物群のディテール関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)背景の空と大地のディテール

「女が三人、又五人——」幻影が生んだ絵

「朝夕孤独の淋さに何物かに祀る心地になる時あった——女が三人、又五人、私の目の前に現れるのです」——この言葉は関根正二自身が残したものです。彼は病後に日比谷公園を歩いていたとき、公衆便所から様々な光に燦爛として現れ出た女性たちの幻影を見たといわれています。あるいは保養先の銚子の山中で見た光景だとも伝えられており、どちらが本当の発端かは定かではありませんが、「信仰の悲しみ」がその幻視から生まれた絵であることは確かです。

当時19歳だった関根は、極度の神経衰弱と精神的な混乱の中にありました。「はっきりと見えた」とされる幻影は、単なる妄想とも、深い祈りの境地から訪れたビジョンとも解釈できます。関根にとって描くことは、その不思議な映像を画布に定着させようとする、一種の儀式だったのかもしれません。

作品の解釈をめぐっては「三千年前の日本の姿を描いた」という説もあります。しかしある研究者が述べたように、「作者自身にも解らなかったであろう」という評価こそが、この絵の本質に近いといえます。幻が確固として現前しており、意味づけよりも幻のリアリティが優先されている——それが「信仰の悲しみ」の深みです。

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)左側人物群のディテール

「楽しき国土」から「信仰の悲しみ」へ——逆転したタイトル

「信仰の悲しみ」という題名は、実は関根正二が最初に考えていたものではありませんでした。当初、関根はこの作品に「楽しき国土」というタイトルをつけようとしていました。幻影の中に現れた女性たちの行列は、彼にとって喜びと祝福に満ちた光景に映っていたのかもしれません。

しかし同時期に活躍していた版画家・伊東深水が作品を見て、「むしろ深い悲しみを感じる」と指摘しました。この一言によって、タイトルは「楽しき国土」から「信仰の悲しみ」へと転換されました。「楽しき」が「悲しみ」に、「国土」が「信仰」に——まったく逆の感情を示す言葉への置き換えは、この絵が持つ両義性を鮮やかに示しています。

見る者が喜びを感じるか、悲しみを感じるか——その受け取り方の違いこそが、この作品の核心にあります。同時代を生きた岸田劉生「麗子像(麗子微笑)」が「不気味な美しさ」と「愛おしい美しさ」の両方を宿しているように、大正の画家たちは美と哀愁が表裏一体であることを知っていました。二つのタイトルを行き来しながら「信仰の悲しみ」を眺めるとき、作品はまた新たな顔を見せてくれます。

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)中央人物の顔のディテール

同時出品の3作品——19歳の全力投球

「信仰の悲しみ」が樗牛賞を受賞した第5回二科展(1918年)では、関根正二は「信仰の悲しみ」のほかに「姉弟」「自画像」の計3作品を出品しました。いずれも1918年という同じ年に制作された作品であり、19歳の画家が短期間にいかに集中的に制作に取り組んでいたかが窺えます。

「信仰の悲しみ」には、油彩完成作に先立ってパステルで描かれた下絵(習作)が存在しています。縦12.5センチメートル、横16.0センチメートルの小さな習作には、完成作と同じ構図の女性たちの行列が描かれており、関根がこの主題をどのように発展させていったかを追うことができます。

同じ大正期の日本洋画として竹久夢二「黒船屋」が女性のメランコリーを叙情的に描いたとすれば、関根の「信仰の悲しみ」はより直接的に魂の底から湧き出た幻影を絵画化しました。洗練の美を目指した夢二と、純粋な霊的ビジョンを追い求めた関根——二人は大正という時代の異なる側面を照らし出す存在でした。

関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)右側人物群のディテール

なぜ「信仰の悲しみ」は今も語り継がれるのか

関根正二が世を去ったのは1919年6月16日、享年20歳でした。残された作品はわずかですが、そのひとつひとつが高い評価を受けており、2003年には「信仰の悲しみ」が国の重要文化財に指定されています。わずか20年の生涯、しかもその多くを病と精神的な苦しみの中で過ごした画家が、これほどまでの傑作を残したことへの驚きは今も尽きません。

大正洋画の文脈において、関根正二は特異な位置を占めています。当時の多くの洋画家たちが欧州に渡り、直接その刺激を受けて画風を磨いたのに対し、関根は一度も海外に出ることなく、独学と精神の内側から自らの表現を作り上げました。その作品がヨーロッパの表現主義や象徴主義と響き合うのは、彼が書物と感受性だけを頼りに同じ地点に到達したからです。

「信仰の悲しみ」は菱田春草「黒き猫」などとともに大原美術館が誇る日本近代美術の精華であり、同館のコレクションにおいても特別な位置を占めています。時代を超えて見る者の心を動かし続けるこの作品は、20歳という短い生涯で燃え尽きた天才の、永遠の証となっています。

「信仰の悲しみ」を見るには——大原美術館と倉敷美観地区

「信仰の悲しみ」は大原美術館(岡山県倉敷市中央1-1-15)が所蔵しています。日本最初の西洋美術中心の私立美術館として1930年に開館した同館は、倉敷の実業家・大原孫三郎が洋画家・児島虎次郎に託して収集した西洋名画と、日本近代洋画の優品を擁する名門です。ギリシャ神殿風の外観が倉敷美観地区のシンボルとなっており、柳川沿いの白壁の街並みとともに訪れる人々を迎えています。

大原美術館の常設展では関根正二の「信仰の悲しみ」のほか、エル・グレコ「受胎告知」やモネ「睡蓮」など世界的名作も鑑賞できます。倉敷美観地区はJR倉敷駅から徒歩約15分です。展示スケジュールや開館情報は訪問前に公式サイトでご確認ください。

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よくある質問

「信仰の悲しみ」はどこで見られる?

大原美術館(岡山県倉敷市中央1-1-15)が所蔵しています。1930年開館の日本初の私立西洋美術館で、倉敷美観地区のシンボル的な存在です。開館スケジュールは訪問前に公式サイトでご確認ください。

「信仰の悲しみ」はいつ描かれた?

1918年(大正7年)に制作されました。関根正二が19歳のときの作品で、同年の第5回二科展に出品し樗牛賞を受賞しています。2003年には国の重要文化財に指定されました。

「信仰の悲しみ」のサイズと技法は?

縦73.0センチメートル、横100.0センチメートルの油彩・キャンヴァス作品です。横長(ランドスケープ)の画面に、複数の女性像が行列するように描かれています。

関根正二はどんな画家ですか?

関根正二(1899〜1919年)は福島県白河市出身の洋画家です。ほぼ独学で絵を学び、オスカー・ワイルドの影響を受けた精神的・幻視的な作風を確立しました。20歳で結核により夭折しましたが、「信仰の悲しみ」は大正期日本洋画の最高傑作のひとつとして評価されています。

なぜ「信仰の悲しみ」というタイトルなのですか?

当初は「楽しき国土」というタイトルが検討されていましたが、版画家・伊東深水から「むしろ深い悲しみを感じる」という指摘を受け、現在のタイトルに変更されました。このタイトルの転換が作品の両義的な魅力を象徴しています。

「信仰の悲しみ」のグッズはどこで買える?

Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)の日本・フランス美術グッズを取り扱っています。大正期の日本洋画や欧州近代美術の魅力を日常に取り入れるアイテムが揃っています。