狩野永徳「唐獅子図屏風」とは?国宝・桃山絵画の最高傑作を徹底解説
信長・秀吉が求めた「権力の絵画」——金地に躍動する獅子の圧倒的存在感

永徳の画は、豪壮にして細緻、雄渾にして精妙なり——「本朝画史」(狩野永納、1693年)より
「唐獅子図屏風」とは——金地に躍動する国宝の獅子たち
金箔を敷き詰めた大画面の前に立つとき、見る者は圧倒的な存在感に息をのみます。激しくも威厳に満ちた2頭の唐獅子——狩野永徳(かのうえいとく)が16世紀に描いた「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」は、日本絵画史が誇る最高傑作のひとつであり、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する国宝です。
六曲一双(ろっきょくいっそう)の屏風は、6枚を繋げた横長の大画面を左右2隻で一組とした形式で、右隻が永徳の真筆として知られています。右隻のサイズは縦223.6cm、横451.8cmという圧倒的なスケール——現在の和室に置けばほぼ天井まで届く大きさです。金地に岩を踏みしめ、たてがみをなびかせる2頭の獅子は、見る者を圧倒せずにはおきません。
この屏風には重要な事実があります。右隻が狩野永徳の作である一方、左隻は約100年後の江戸時代に狩野常信(1636〜1713年)が補作したものです。永徳が描いた右隻のみが16世紀の桃山文化の精粋を伝えており、左右の成立年代には実に1世紀の差があります。
1888年(明治21年)に毛利元徳から明治天皇に献上され、以来、皇室の至宝として受け継がれてきました。2023年にリニューアルオープンした三の丸尚蔵館の代表的なコレクションのひとつです。

制作の背景——信長・秀吉に仕えた天才絵師の生涯
狩野永徳は1543年(天文12年)、京都の絵師の名門・狩野家に生まれました。祖父は室町幕府の御用絵師として活躍した狩野元信(1476〜1559年)、父は狩野松栄(1519〜1592年)という恵まれた家系です。幼少期から才能が開花し、10歳のとき祖父とともに将軍・足利義輝に拝謁したという記録が残っています。
永徳が歴史の表舞台に登場するのは、1574年(天正2年)頃に描いたとされる「洛中洛外図屏風(上杉本)」(国宝、米沢市上杉博物館蔵)からです。縦160.4cm、横364.2cmという大画面に約2500人の人物を描き込んだこの大作は、永徳が30歳を目前にして制作した時代の記録であり、都市全体を俯瞰する構図の大胆さと人物描写の細密さが共存する国宝です。
1576年(天正4年)には33歳で織田信長に召し抱えられ、安土城(滋賀県)の天主閣を飾る障壁画群を一手に手がけました。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)の障壁画を制作しました。しかしそれらの大作は、安土城の炎上・大坂城と聚楽第の廃城によってほとんどが失われています。
「唐獅子図屏風」が制作されたのは、まさにこの秀吉に仕えた晩年の時期と考えられています。永徳は1590年(天正18年)10月12日、47歳で没しました。雪舟「秋冬山水図」が示した水墨画の精神的深みが日本絵画の一極を担っていたとすれば、永徳の「唐獅子図屏風」は金と色彩で桃山のもう一極を体現した作品です。

技法と構図——金地に吼える獅子、桃山様式の頂点
「唐獅子図屏風」の技法的特徴は、安土桃山時代の豪華絢爛な美学を体現しています。地は金箔を貼り重ねた「金地(きんじ)」——その輝く画面に、岩絵具(いわえのぐ)と墨で描かれた獅子と岩が配置されています。
永徳の画風の根幹は「太画(たいが)」と呼ばれる大様式の表現です。細部の繊細さよりも、構図全体の雄渾な迫力を優先するこのスタイルは、広大な城の大広間を飾るために発展しました。「唐獅子図屏風」において、獅子は大画面に対して圧倒的な存在感で描かれており、生命力のダイナミズムを表現することに全力が注がれています。
左隻側の白い獅子の頭部には、実物を見たことのない絵師が中国の図像学をもとに理想的な威厳と力強さを作り上げた痕跡があります。目は大きく見開かれ、口は裂けるように開かれており、たてがみは炎のように逆立っています。
右隻側の金色の獅子は、振り返る動きの中で流れるようなたてがみと尾を見せています。2頭の獅子の黒い毛並みは、渦を描く曲線が幾重にも重なる表現で描かれており、単なる写実を超えた装飾的エネルギーを放っています。岩を踏みしめる鋭い爪は、大地を貫く力強さを感じさせます。




「権力の絵画」——信長・秀吉が獅子に仮託したもの
安土桃山時代における障壁画は、単なる装飾ではありませんでした。城内に来訪する大名・使者・諸侯を絵画の力で圧倒し、城主の権威を視覚的に刷り込む——まさに政治的な武器でした。
唐獅子(中国の獅子・架空の神獣)は古来より「百獣の王」として皇室・貴族・武将の権威を象徴する図像です。金地の屏風と組み合わせることで、所蔵者の権力と威望を視覚的に宣言する「権力の絵画」として機能しました。秀吉が大坂城や聚楽第に唐獅子の障壁画を発注した記録が残っており、「唐獅子図屏風」もこうした政治的文脈の中で制作された可能性が高いと考えられています。
しかし皮肉なことに、安土城の障壁画は1582年の本能寺の変直後の戦乱で消失し、大坂城・聚楽第の障壁画も建物の廃城とともに失われました。現存する「唐獅子図屏風」は、永徳の実力を直接伝える数少ない作品のひとつであり、桃山時代の大画制作の規模と迫力を現代に伝える希少な遺産です。
長谷川等伯「松林図屏風」が禅の静謐を体現しているとすれば、「唐獅子図屏風」はまさに権力と生命力が爆発する桃山の時代精神そのものといえます。

100年の時を越えた二人の絵師——左隻の謎
「唐獅子図屏風」を語るとき、どうしても触れなければならない謎があります。現存する屏風の右隻は永徳の真筆ですが、左隻は約100年後の江戸時代に狩野常信(1636〜1713年)が描いたものです。なぜ、同時代に一対として生まれたはずの屏風が、1世紀の時間差を持つ二人の絵師によって構成されているのでしょうか。
最も有力な説は、永徳が描いた左隻が何らかの事情——火災・水害・紛失など——で失われ、後に狩野派の当主として活躍した常信が、右隻のスタイルを参考に補作したというものです。常信は永徳の曾孫にあたる後継者であり、狩野派の画風を継承する立場にありました。
三の丸尚蔵館の記録によれば、常信は永徳の右隻を手本に、できる限り同じ精神で左隻を描こうとしています。しかし、両隻を細かく見比べると、描線の質感、金地の表現、獅子の毛並みの描き方などに微妙な違いが見受けられます。100年という時代の隔たりが、桃山の豪壮な筆致と江戸の洗練された技法の差となって現れているのです。
この「世紀をまたいだ二人の絵師」という事実は、屏風の前に立つとき、もうひとつの深みを与えてくれます——右の獅子と左の獅子は、同じ魂を持ちながらも、異なる時代の空気を纏っているのです。

もう一つの国宝——「檜図屏風」との対話
狩野永徳の現存作品の中で、「唐獅子図屏風」と双璧をなすのが「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」(東京国立博物館蔵、国宝)です。1590年頃の制作とされるこの作品は、巨大な檜(ひのき)の枝が金地の画面を圧倒的な力で占める、永徳晩年の傑作です。
「唐獅子図屏風」が動物の生命力を全面に出した作品であるのに対し、「檜図屏風」は植物——それも古木の巨大さと生命力——を同じ豪壮な筆法で描いています。どちらも金地に対象物を大画面いっぱいに配置するという構図は共通しており、永徳の「太画様式」を理解するうえで、二作品を並べて考えることが欠かせません。
また、初期の大作である「洛中洛外図屏風(上杉本)」(国宝)では、永徳の細密描写の能力も見ることができます。同一の画家が、細密な都市図と豪壮な獅子・巨木を同等の力量で描いた——この振り幅こそが、永徳を桃山絵画の頂点に位置づける理由です。
「唐獅子図屏風」・「檜図屏風」・「洛中洛外図屏風(上杉本)」という3点の国宝を通じて、16世紀日本の最も偉大な絵師の全体像が見えてきます。

なぜ「唐獅子図屏風」は今も語り継がれるのか
「唐獅子図屏風」が美術史的に重要な理由は、単に「壮大な絵」というだけではありません。この作品は、桃山時代という特殊な歴史的瞬間——天下統一を目指す武将たちが前例のない規模で文化に投資した時代——が生み出した、二度と繰り返せない美術的成果を凝縮しています。
狩野派は永徳の後も約250年にわたって日本の幕府・宮廷の官官画壇(かんかんがだん)を支配し続けました。永徳が確立した「金地に大図様」の様式は、後継の狩野山楽・狩野探幽・狩野常信らに受け継がれ、江戸幕府の公式絵師集団として宮廷と幕府の視覚空間を形成し続けます。「唐獅子図屏風」はその源流のひとつです。
近年では、キヤノン「綴(つづり)プロジェクト」によって高精細デジタルスキャンと超高品質複製画が制作されています。失われた城郭障壁画の多い永徳作品の中で、「唐獅子図屏風」の精細データは桃山絵画研究の貴重な基礎資料となっています。また2023年にリニューアルした三の丸尚蔵館では、より多くの来館者がこの国宝を実物で体験できる環境が整えられました。
「唐獅子図屏風」を見るには——三の丸尚蔵館とグッズ情報
「唐獅子図屏風」は現在、東京・皇居東御苑内に位置する宮内庁三の丸尚蔵館(東京都千代田区千代田1-8)に所蔵されています。2023年11月にリニューアルオープンした新館は、1993年開館の旧館から大幅に拡充され、皇室の至宝をより多くの方に公開するための本格的な美術館施設となりました。
「唐獅子図屏風」は国宝のため、常設展示ではなく特別展・企画展のかたちで公開されます。来館前に三の丸尚蔵館の公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。入館料は展覧会により異なります。最寄り駅はJR・東京メトロ「大手町駅」から徒歩約10分、または「竹橋駅」から徒歩約5分です。皇居東御苑に入る際は大手門または北桔橋門(きたはねばしもん)からアクセスできます。
Museum Boxでは、パリ・ギメ東洋美術館が監修した葛飾北斎「神奈川沖浪裏」などをモチーフにしたフランス国立美術館連合(RMN-GP)の日本美術グッズを取り扱っています。「唐獅子図屏風」の迫力に触れた感動を、日常生活に持ち帰るアイテムとして、ぜひご覧ください。
よくある質問
「唐獅子図屏風」はどこで見られる?
宮内庁三の丸尚蔵館(東京都千代田区、皇居東御苑内)に所蔵されています。常設展示ではなく特別展・企画展のかたちで公開されるため、来館前に公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。最寄り駅は竹橋駅(東京メトロ東西線)から徒歩約5分です。
「唐獅子図屏風」はいつ描かれた?
右隻は16世紀の安土桃山時代(1590年頃)に狩野永徳によって制作されました。左隻は約100年後の江戸時代(17世紀)に狩野常信(1636〜1713年)が補作したものです。左右で成立年代が異なるという、大変珍しい一対の屏風です。
「唐獅子図屏風」のサイズは?
六曲一双(6枚折りの屏風が左右1組)の構成で、右隻は縦223.6cm×横451.8cm、左隻は縦224.0cm×横453.5cmです。現在の部屋に置けばほぼ天井まで届く、圧倒的なスケールの作品です。
「唐獅子図屏風」は国宝?
はい、国宝に指定されています。1888年(明治21年)に毛利元徳から明治天皇に献上されて以来、皇室の至宝として受け継がれてきました。右隻が狩野永徳(桃山時代)、左隻が狩野常信(江戸時代)の作で、2世紀にわたる狩野派の継承を示す貴重な文化財です。
狩野永徳はどんな人?
狩野永徳(1543〜1590年)は安土桃山時代を代表する絵師で、狩野派の第3代当主です。織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城・聚楽第などの障壁画を手がけた「天下一の絵師」として知られています。代表作には「唐獅子図屏風」(国宝)「檜図屏風」(国宝)「洛中洛外図屏風(上杉本)」(国宝)があります。
日本美術のグッズはどこで買える?
Museum Boxでは、フランス国立美術館連合(RMN-GP)の日本美術グッズを取り扱っています。パリ・ギメ東洋美術館が監修した葛飾北斎「神奈川沖浪裏」をモチーフにしたうちわ・ポーチ・ノートなど、日本美術の世界観を日常に取り入れられるアイテムを日本からご購入いただけます。